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特集・ダンス!
 
今号は“ダンス”を大きくクローズアップ!特別企画として、現在様々な見地から精力的に活動を続けているダンサー4名の方に自身のこと、ダンスのことなど改めて振り返って頂きました。


 ©康欣和
工藤丈輝 Taketeru Kudo
処々雑感

67年仙台市出身。慶大仏文科卒。玉野黄市に師事。和栗由紀夫作品に参加ののち、91年よりソロ活動を始める。95~98年山海塾に出演。元藤燁子主宰のアスベスト館ではその封印まで出演、振付を手がける。近年はソロを主軸に国内外で公演して回る。近作に、『業曝』、『荒漠器』、『工場』、『降海の夢』などがある。




  外部に依って立つ何らの価値も見出せないとき、表現は極度な個的回路に陥る。そこにどうしようもなく開かれないものの不幸が潜んでいることは承知のうえであるが、見るからに色褪せた紛いものに寄り添うよりは、無惨であっても触知しうる個の地獄と面していた方がいくらもましに違いない。

  解体せよ,解体せよとの呼び声に促されるがままに、地表を駆けずり回る四半世紀を過ごし、近ごろではこの逃げ口上では立ち行かない身のやる瀬なさに焦がれるに到った。
  そもそも破壊行為それ自体が標的であるわけではなく、その果てに拓けるであろう未知の領域をさがしあぐねての放浪であったはずだ。幼い反抗時代をあまりに長く過ごしてしまった。昔のノートに「ものごとを粒子状に解体したところからの再構築」なる言い回しがよく現れるが、私がこれまで何を構築しおおせたかは疑問だ。今後は、……舞踏生命がいつまで続くかは分からないが、……乏しい資質を奮い起こして、いまだ見ない新奇の富を掘り当てる営為に時が費やされるだろう。

  舞踊観を述べよとの達しであるが、元よりダンスに関心があっての現在の活動ではない。舞踏でもない。演劇でもない。
  私は舞踏家と称されるが、それは師匠が舞踏家であったまでのことだ。
  駆け出しの私を無理やり、拉致し去って、いまある位置に押し込めたのは、むしろ舞踏の側である。
  「私は舞踏の世界を選んだのではなく、そこに押し出されていたのだ。」―T.H.

  思弁的な思考、言葉の氾濫に倦んじた二十歳の私は、せめてものよすがを肉体に求めた。あるいは私を肉体の王国に導いたのは言葉そのものであったかも知れない。あるいは自らに言葉を紡ぐ才の欠けていることを薄々感づいていて、半ば意識的操作で身のおき所を身体表現に移し換えていたのかも知れない。
  肉体の茫洋たる海原に漕ぎ出したものの、すぐには行くあては見つからない。
  数多くの舞台を観、聴き、経験し、そして踏み迷う。
  東西の舞踊、演劇など試すも、どうもしっくり嵌らない。何ものかを切望する精神も満たされない。舞踏も当時はまだ隆盛期にあり、足しげく通うのだが、独特の長閑な間に辟易させられてしまう。そうした中、玉野黄市と哈爾濱派「自然の子供」に出逢う。見たこともない手法だ。暗黒舞踏の頭目であるが、暗くない、色彩豊かに華やいでいる。表現に説明はないが、めくるめくメタフィジクスに底知れないものが湛えられている。しばしの逡巡の末、私はこの男の門を叩く決心をした。
  修業時代のことは語るまい。誰しもが通過する苦労を人並みに経験したまでのことだ。もっとも二十も過ぎた生硬な身体には、ひと前で一端に身を曝すまでにひと一倍の時間と経験量を要したとだけ言っておこう。


©康欣和

  いつの頃からか「ワークショップ」なる命の切売りと買喰い文化が流行り出し、平然とまかり通るようになる。時代の所産とて私も抗いはしないが、そこから徹底した表現が生み出されるかは疑わしい。
  私の師は決して踊りを教えたりはしなかった。長く付き随い、稽古や生活、作品製作をともにすることで、マナーはおのずから吸収される。
  舞踏は教えられない。回顧的に体験を披歴することはできても、おどりの産まれる瞬間はついぞ伝授されたためしはない。

  しばしば音楽はよき導師であった。
  「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」というのは真実で、重力という打ち克ちがたい枷にはめられた肉体は、空間を気ままに跳梁する音楽にはとうていかなわない。踊り児は甲斐なき闘争を挑んでそれに近づかんと鍛錬する。よき踊りというのは、音そのものの軽さ、奔放さに限りなく近似値に歩み寄ったもののことをいう。
  片や楽士は、音という奔流のごとく制御しがたい魔ものを扱う危うい身分である。身体を打ち捨てておいても、楽器をもつことでその身体性は成就される。つまりは音に操られる身体である。かれらもまた、重力もつ踊り児の天然状態に回帰せんことを密かに希うているのかも知れない。

  この世には音よりもさらに自由なものがある。それこそ舞踏家の目ざすべき究極の状態であると言ってよい。……光だ。
  当初、師から「光の人物」なる振りを与えられたが、身体は理解を拒んだ。それもそのはず、年稚く生臭い肉体をもてして光の神速度など捉えられるはずもない。
  舞踏家が想像力を働かすとき、その身体は対する物象と同一化せんとする。ここにこそ我々の日ごろの鍛錬度と精神性が試されるとみてよい。すぐれた人物はおそらく、実存の重たい闇をけし去り、この世ならぬ微笑をたたえて、軽やかに、じつに軽やかに空間に戯れていることだろう。

  「神の光を臨終している」―T.H.

  識閾下の心象を追い求めるのが我われに通底した作業で作業であるなら、それは決して意識によっては成就されない。ある者は酩酊状態に入り、現身を滅ぼすことでそこに分け入ろうと謀る。……可能かもしれない。……が、こと肉体を素材として用いる舞踏行為である場合、そこに必須の喚起力さえ失ってしまう危険がある。思弁的態度は忌むべきものとして、我われが内奥に埋もれた財宝に出くわすためには、ひたすら踊りに踊ること、稽古と実践を繰り返すしかないというのが本当のところだ。……つまらないね。ご免なさい。


次回公演
・『敗北の傘』
日程:2015年10月8日(木)~12日(月・祝)
会場:座・高円寺
問合せ:tokyoguienkan@gmail.com





[artissue FREEPAPER]

artissue No.005
Published:2015/08
2015年8月発行 第5号
 
鈴木ユキオ ダンスとは何か わからないなりにわかろうとするエッセイ
スズキ拓朗 観れる!観たい!のダンスを創る! ~既視感のある作品なんて観たくない~
手塚夏子 「ダンス」の幅、線引き、別の可能性
工藤丈輝 処々雑感


 
「コンテンポラリーBUTOHダンサー」の旅は続く 石本華江
「挑戦心光る異色のパーカッション・パフォーマンス」 立木燁子
反・知性的な日暮里d‐倉庫『出口なし』フェスティバル 芦沢みどり

 
「やっと」 小暮香帆 ダンサー・振付家
「男性中心と創作過程」 黒須育海 ダンサー・振付家