近年、舞踏の海外普及は目をみはるものがある。様々な国で舞踏フェスティバルが開催され、日本から海外から多くの舞踏家が参加している。私は3歳から踊り始め、まずコンテンポラリーダンサーとしてキャリアを開始した。だが2002年より師匠の和栗由紀夫に出会い、舞踏を始めた。今でも舞踏だけでなくフィジカルシアター、コンテンポラリーダンスと幅広く仕事をしているが、海外には「若手舞踏家」として招聘されることが多い。
©Kenichi Shouji
海外で私は「コンテンポラリーBUTOHダンサー」として紹介される。所謂ビッグネームを指す「BUTOHマスター」に対して「クラシックBUTOH」というカテゴライズもあるが、私は土方巽の創り出した作舞法である「舞踏譜」をベースとしていてもキャリアや年齢から「コンテンポラリー」と判別されるようだ。また「BUTOHベース」という呼称も頻繁に耳にする。それは「BUTOHダンサー(舞踏家)」ではなく、舞踏に影響を受けているものの、それに止まらない活動をしている海外の芸術家が好んで使用している。つまり私は舞踏以外の仕事をする上で「BUTOHベース」ではあるが、自分を「舞踏家」として自己認識している以上「BUTOHダンサー」として名乗らなくてはならないようだ。また「BUTOHダンサー」なのか「BUTOHアーティスト」なのかも、 そこに込められた心意気があるようで、各人のこだわりを持って呼称を決めている者も居る。
私は舞踏第6世代とも、舞踏第3世代とも呼ばれる若手である。戦後世代である第1世代とは完全に異なり、またキャリアを積み確固とした独自性がある諸先輩よりも、よりグローバルな文脈でのコラボレーションや若手同士の交流を図れると期待されて海外に招聘される傾向を感じる。よって自作品の上演よりも、滞在制作や現地のアーティストとのコラボレーションを行う機会も多く、最近では海外での仕事がほとんどになってきた。思えば海外での公演は、2005年に和栗由紀夫+好善社としてインドネシアツアーに参加したのが始まりであった。その後この10年間に、16カ国41都市で公演、滞在制作を行ってきた。和栗振付によるソロにてアジア、ヨーロッパ8カ国ツアー、またイギリスの劇団「dreamthinkspeak」の日韓英国際共同制作を始めとして、様々なカンパニーやプロジェクト、コラボレーション作品に出演。他にもフランスのCNDCにて一ヶ月の研修や、タイやアメリカでレジデンスにも参加した。
©Masahiko Taniguchi
正直、海外での成功の秘訣などを知っていたら私が教えて欲しいくらいだ。毎回どんな苦難や挑戦が自分を待っているのか、それを自分はいかに楽しむことができるのか、一度一度のハードルをいかに超えてゆくか、それだけを考えて今まで仕事をしてきた。無論失敗したこともある。海外の場合、失敗に対して日本より非常にシビアであり、二度と取り返しがつかないように感じる。また無知や不用意が不必要な誤解を生み、失敗につながったケースもあった。特に私は自分を守ってくれるプロデューサーやオーガナイザーが居る訳ではなく、全て一人で交渉しているからこそ、慎重に進める必要がある。
そうした失敗から学んだことは、「国内/海外」という一括りではなく「どこの国であるか」を重視して制作を行うことだ。その国独自の政治的/文化的/歴史的なファクターをリサーチすること。その国や地域コミュニティへの還元を、そこでの芸術の捉えられ方、つまり社会的要素を基盤にして考えてゆく。アートの果たす役割も、位置づけも国によって全く違う。東南アジアでは芸術と政治が非常に近く感じた。カンボジアではダンサーという理由で虐殺され、当時生き残った私と同世代の踊り手が古典舞踊の教育に励んでいる。タイや香港でも作品に込められた政治的思想により逮捕された友人もいるし、イランの友人は国からの検閲を受けて初めて公演ができると話していた。それは中国本土でも同様だ。またサラリーマンのようなヨーロッパにおけるアーティストのあり方は理想的ではあるものの、公的基金の援助を受けているからこその不自由性も感じた。親が金持ちでないと芸術できないアジアの大多数の国のことも鑑みると、案外フリーターで自由に「芸術」できる日本も捨てたものではないと考えるようにもなった。
日本も非常に独特のルールがある国だ。国によって異なる独自性に、いかにフレキシブルに対応してゆけるか。それはまるでRPGでアイテムと経験値を増やしてゆくのに近い感覚だ。これからも私の旅は続く。
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