かつての「アングラ演劇」は前衛演劇の範疇には入らない。もし「前衛的アングラ演劇」を「今までの演劇の徹底的な解体とその同時代的問い直し」と捉えるならば、札幌においても他ジャンルとの境界を超える表現方法が行われています。だが、それが「今」という社会の最先端の表現方法としての前衛的アングラ演劇なのかどうかは判然としません。
今、再び「前衛的アングラ演劇」とは何かが問われているのが現状です。だから「私」は「何が最も演劇表現にとって本質的なのか」という問い直しを常にしながら、表現活動を続けてきました。例えば前衛的アングラ演劇が流行と関係なく生き残るものは何か、という視点から捉えるならば、すでに60年~70年代の現象と現在とは異なり、「前衛」という言い方自体を問い直さなくてはならないのです。「前衛」そのものは「大時代的」な言葉であり、現在において「何に対する前衛」なのかという問いが当然あります。ですから、「私」は演劇にとって今一番基本的で本質的なものは何かを追求しはじめたのです。ちなみに「私」はグロトフスキーやピーター・ブルックのような成功例を参考にしてきました。
この場合、「私」は舞台に映し出されるあるシンボリックなものが人間という概念の何をどの深さで、どの水準でシンボライズしているかを問題視しているのです。
だが、地方都市は依然として、リアリズム演劇が主流として根付いていますが、今年異変が起こりました。「札幌演劇シーズン2015-夏」というすぐれた作品の再演を目的としたロングラン公演において、初めて「寺山作品」を上演しました。これは当初の予想を覆して、いつもなら30名くらいしか入らない寺山作品に800人以上の観客が入り、札幌においては新しい変化でした。「私」の芝居はメインストリームにはならないが、つまり地方にも異質なものを受け入れる土壌がやっと出来上がりつつあります。しかしまだ「地方と中央都市」という構図は、「リアリズム演劇とアングラ演劇」という二項対立の図式のように、依然としてその差別は残っているのです。ですから、「私」は表現において、定義とか本質とかが先にあるのではなく、その表現を作り出すための関係性や人間存在のあり方こそ問題視されるべきだと思うのです。実際の表現活動における不連続を連続しているという幻想から、「私」は演劇という手段を用いて表現活動を続けています。
さて、この地においても、長い期間、日常の断片にこだわるか、日常の断片の追体験というブレヒト的複製演劇が主流だったが、現在その方法論を超える若者たちが出現してきたのです。つまり「身体と言葉」、「身体と時間」ということの興味が高まり、自分の中の異質なものや差異のあらわれる形に興味関心がシフトしてきたのです。ジャンルの越境なのです。それは演じる関係性が重層的になってきたからです。つまりそれは、国内外の先進地域の影響を大きく受けてきたからではなく、純粋培養して増殖した理念がこの北方の地においては、閉鎖的な圧力となり、独自に変容・変質してきたのです。
ですから、やはり今、私たちは日常的現実の中に、虚構を組み込み、いかに現実を攪乱させることができるかを最大の目的としているのです。だが、ある現象面で言うと、つまりいままで主流的な演劇の中では市民権を得ていなかったダンスや舞踏や大道芸とかいう手法を加えていくことが演劇の解体といっています。それは一方で文学と癒着していた演劇を解放したともいえます。だが、それが果たして「前衛的」なのかどうかはなはだ疑問として残ります。しかも、その現象が自らの意味する体系の「しかるべき場所」に安住する危険に遭遇するのでした。つまり、それは意識と身体の物理的ムーヴメントにズレが生じ、表現に嘘やごまかしが混入されはじめたのです。そして、結局のところ、意味のないものを意味のないものとして受け入れる間違った「前衛的アングラ演劇」に帰結してしまったのです。ですから、「私」は演劇という一回性の残酷さを突き付けられ、皮膚に包まれた身体で生きていくことから逃げず、覚えてしまった言葉を強く意識することから表現を続けていくべきだと思っています。つまり演劇においても言葉から出発してどんどん遠ざかっていく身体を取り戻し、動きと意識の重なりの中で自覚していくべきだと思うのです。
演劇全体の虚像の中で、「私」のイマジネーションを再現する行為が演劇の基本だと思っているので、自分の存在論的なレベルで、日常との異質な関係を演じていきたいのです。その意味では異物を日常の連続の中に持ち込むという表現行為は、この地でもある意味性を持ったのです。それは「私」が演劇を手段として何ができるか、つまり、何かを表現しようとする場合、「私」にとって自分が何かを言いたいとき、なぜありもしない「前衛的アングラ演劇」という形式を選ぶのか、またその何かを言いたい相手は誰なのか、などもっと先進的に考えていかなくてはならないと思うのです。
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アトリエ「阿呆船」
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言いかえるならば、現在北方の地からの発信として、前衛的アングラ演劇を成立させる重要な要素となるものは次の現象だと思うのです。つまり「今」という時代の表現活動は「価値の越境と変形」という多文化との「共生と融合」にあると思うのです。ちなみに「私」の演劇表現の本質はうまく言葉と身体がリンクしている瞬間にあると思っているのです。ですから言葉が現在で、身体が未来を一瞬照らすと思っているのです。その意味では「地方からの発信」としての前衛的アングラ演劇はあり得ないというのも前衛的レトリックであって、この地においても「私」の存在論的レベルで演じることが、まさに異質なものとの関係を演じる虚像を作りあげるのです。また、すでに新しい演劇の座標軸など地方においても都市においてもありえはしない。それは言葉が等身大の世界の反映にすぎないからなのです。それならば「私」という等身大の身体が感ずる感覚以上のことをやるしかないと思っているのです。
次回公演
寺山修司作『疫病流行記』
日程:2016年7月上旬 会場:札幌にて
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