それは、林慶一『公共について』から始まった。2010年『あなたと私の社会』の舞台上にもあった、スタンド・マイク。今回は、それで言葉を語ることはなく、舞台は全体に、日常意識よりも、遙かに「自らの核」に近い変性意識状態の中で行なう、プレイ・セラピ-のようだった。言葉ではなく、まさに身体が語ったのだ。開演前から、横長のミシン台のような机の上で、書初めに使うような幅の紙をセッティングされたロ-ルから延々と引き出し、固い墨を紙に打ち付け、自らの名前を大きな文字で、繰り返し書き付ける。
机をアトランダムに移動しつつ、その「行為」を続け、紙はア-ティスチックに床に散乱した。次には、いくつかの紙袋から、自分のモノクロ顔写真を表地にコピ-した砂人形のような50近くのオブジェを取り出し、次々と並べ置いた。それらの「行為」は、表現主義的に「核」から噴出するかの高いテンションで行なわれが、そこにあったのは「怒りや敵意や我欲」の表出ではなく、観客への威圧でもなく、「人一人(ひとひとり)の尊厳のパワ-の露出」であると見受けられた。
林慶一『公共について』©前澤秀登
舞踏の大野一雄は、魂魄(こんぱく)という語をよく用いたが、そういうレベルの話だ。我欲やコンプレックスによる防衛の殻を割った、もっと深い所にある「人と何かを分かち合えるはずの個の尊厳」に近づく変性意識を支えたのは、時に寄り目がちに遠くを凝視する眼差しと、呼吸である。「OM-2」の佐々木敦に憧れてパフォ-マンスを始めた林の呼吸は、高まると過呼吸気味になる。
呼吸の仕方は、身体と意識の状態を確実に左右する。呼吸法を用いる、ブリ-ジングというセラピ-がある。排他的に夢想の天上界から地獄様の苦しみに落ちるドラッグのような呼吸法もあれば、防衛の殻を緩め、コンプレックスを解除する癒しを目指す呼吸法もある。佐々木や林の呼吸法は、後者に似ている。
ロ-ル紙を引き伸ばして書き連ねた名前の出現は、自己の内面(尊厳)を掘り起こして現実世界に広げてゆきたい願望に見える。砂人形のオブジェを打ち立て続ける行為は、いろいろな場所に通用する自分を打ち立てたい願望なのか。それは、単なる自己顕示欲を超えた、魂魄の願いに近い遊びに見える。ロ-ル紙の脇の小モニタ-は、異世界からの信号なのか。防衛意識による争いではなく、互いの尊厳を共存させ得る「公共」を私は願う。
木村愛子『ガタザメル』、木村のダンスを始めて見たが、好感を持った。木村も、視線を遠くに集める。それは、身体と意識を真摯な変性状態にスッポリと浸すものに見える。まず、この点が林と共通していた。見始めてすぐに、〈身体〉に対する態度表明を共同企画した意味が、分かった気がした。
踊るというより、静謐な集中の中で、静止の後に現れる、体位や身体部位の瞬時の移動で始まった冒頭。ここで大事なのは、それを可能にする、瞬間的な「気張りのない脱力」で、それは「心身の防衛意識の解除」と同意である。たとえば野口体操で寝転んで脱力し、手足や身体部位を持ち上げ、関節から落下させようとしても、重力に従わないことがあるのは、身に付いた防衛意識(構え)のためだ。
防衛や、社会の秩序(一般常識)、それらに順じられない身体も困るが、その意識から一時も逃れられないのならば、それらに「飼いならされている」ことになり、自在ではない。それでは、表現者として多くを観客に与えることができず、自らの尊厳をもって社会に対峙するのも難しい。そこから逃れている〈身体〉のあり方も、林と共通していた。
木村愛子『ガタザメル』©前澤秀登
ダンスの音響は、無音、ノイズ、野性味を含めたビ-トなど。コ-ラル・オレンジの薄ものの上着とズボン。全体に、高次元の宇宙にいるマネキンのような中立性(ニュ-トラル)。それなのに、どこかで「愛して」と叫んでいるような若い女性の自然体。場面毎に、身体性に変化をつけた知性。心に残った。
林慶一 www.hayashikeiichi.com
木村愛子 www.kimuraaiko.com
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