現在、「artissue」は編集部の自費のみで運営・発行しています。まだ始まったばかりで試行錯誤の段階ですが、応援して下さる皆様からのカンパをお願い致します。集まったカンパは今後の運営資金として大切に使わせて頂きます。
これからも「前衛」の魅力について多くの方に紹介していきたいと思っています。いくらでも構いませんのでご支援のほど宜しくお願い致します。誌面広告も募集しています。

・振込先:
郵便振替 00130-9-359857「artissue」
※備考欄にカンパとご明記下さい。

・他行からの振込 
ゆうちょ銀行 019 当座 0359857
   
1.交錯する批評 OM-2『9/NINE』
今、「舞台批評」が地盤沈下している。紙媒体だけでなくネットも含め「批評」の場が次々と失われていく。舞台芸術の評価はツイッターやコリッチを舞台とした「感想」に委ねられているかのよう。今回の特集では「OM-2」の最新作『9/NINE』(2016年9月上演)についての執筆を4名の書き手にお願いした。

OM-2『9/NINE』
2016年9月15日(木)~17日(土)@日暮里SUNNY HALL



「刻み続けるリズムによせて――OM-2『9/NINE』評」
宮川麻理子(ダンス研究者)



©藤居幸一

  初めに断らなければならないが、私はこの作品を十分に批評する資質を欠いている。本作は『Opus No.9』の改訂再演だが、私は初演を見ておらず、何が改訂されどう進化したか論じようがない。純粋に2016年9月16日一度きりの観劇体験に依拠する他はないのだ(多くの劇評とはそういうものであるが・・・)。しかもOM-2を見るの自体が初めてだったりするのだから、いよいよ心許ない。劇団の傾向や発展という文脈での位置づけも難しい。よってこの寸評は、いちダンス研究者である筆者の体感をもとに、少々の考察を行う試みに過ぎない。
  『9/NINE』は、初演時の評で立木燁子が述べているように1アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』が意識されている。なるほど、確かに老年にさしかかり精神に異常を来しつつあるセールスマン風の父親が帰宅するところから舞台は始まる。だがOM-2の手法は「戯曲の再現」からはほど遠く、ここでフォーカスされるのは、激しくリズムを刻み続ける俳優たちの身体存在である。否応なく観客に迫りくるその音と振動は上演中ほぼ休みなく継続し、その過剰さによって、狂っているのは一体誰なのか、私たちに問いかける。
  会場の日暮里サニーホールに足を踏み入れると、そこはかなり狭い空間に区切られており、天井まで届く足場が組まれ、スクリーンが張られている。その前には三つの机。各机には、自宅にいる長男と、離れて暮らすその兄弟姉妹たちが座り、テレビ電話をしている。その様子は、スクリーンに投影される台詞で一部説明されるものの、大部分は机や体を手で叩いて音を出す、俳優たちの人間パーカッションで進行する。トランスするように叩くさまは異様であるが、実際はこの行為は徐々におかしくなっていく父親によって強いられていることが明らかになる。この家族の様子を、足場の上からぼんやりと見守っている寝間着姿の青年は、一見病んでいるように見えながらも、最も冷静な傍観者であり続ける。本当に父親が狂っているのだろうか。この後、観客は舞台の裏側に設えられたメイン会場と客席に導かれる。
  こちらは父親が入居することになった老人施設。観客は、ここで開催される「お楽しみ恒例発表会」を見に来たという想定で、幼稚園のお遊戯会のようなかわいらしいチラシを渡される。だがここでのお遊戯は、過剰ともいえるパーカッションの応酬である。父親や、床に並べられた箱から顔を出す出演者たちは、自分の体や床、手にしたスナック菓子の袋などを叩きリズムを刻む。ときにそのエネルギーの中に怒りを感じるほどに、激しい音楽が奏でられる。これは、この老人施設に閉じ込められた者たちの非言語的なある種の叫びであろう。途中、施設の職員がタップダンスを踊り、頭上に吊られた太いパイプが観客席にのめり込むように落下し音をたてる。唯一展開された父親のモノローグを除き、最後の太鼓やシンバルの集団演奏を含め、次々と繰り出される多彩なリズムが劇を支配し続ける。この異様な身振りを繰り返す者たちが狂っているのか、はたまた私たちの肉体が飼いならされているのか、圧倒的エネルギーを持って問いかけてくるのは、何かを「異様」とみなして囲い込む社会システム、そこで尺度として使われる「身振り」がどこまで許容されるのかという点である。
  この舞台には説明台詞はなく、観客が受けとるものは激しいリズムがもたらす振動に依拠した体験である。だがこれは、狂った者たちによる異様な様態なのではなく、身体間での別種のコミュニケーションの試みである。彼らが自らの身体を、怒りを込めて叩き付けるようにパフォーマンスするとき、何に怒っているのか私たちは推測することしかできないが、そのエネルギーは感知できる。そして時宜的に、この舞台の老人施設という外部から半ば隔離された環境は、相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件を想起させた2。犯人によって「意思疎通ができない」とみなされた障害者たちが犠牲となったこの件に関連し、ネット上で目にしたお笑い芸人「爆笑問題」太田光のコメント3が印象に残った。太田の発言を要約すると、被害者たちは彼らなりの方法で意思を伝えていた、むしろそれを受けとる感性を持たなかった犯人の方が、コミュニケーションがとれないのだということになる。この点に触れるべきかという逡巡はあったが、事件後に見た本作は、この現実と無関係では存在し得ない。私の中では、コミュニケーションの手段という接点によって完全にリンクしたのだ。父親のパーカッションの身振り=言語以外の手段を「狂気」とみなしてしまう我々は、危うさと表裏一体である。このような問題提起は舞台では一言も説明されていないが、刻み続けられるリズムを通して私が体感したのはこうした印象であった。演劇と社会は地続きである。


1「挑戦心光る異色のパーカッション・パフォーマンス」『artissue』No.5、2015年8月。
2 2016年7月26日、障害者施設の入居者19人が殺害され、負傷者も多数出た。
3 http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-13323.html


次回公演
■OM-2
『ハムレットマシーン』

日程:2018年3月上演予定
会場:日暮里SUNNY HALL

詳細



[artissue FREEPAPER]

artissue No.008
Published:2017/02
2017年2月発行 第8号
  

  1.交錯する批評 OM-2『9/NINE』
      「沈黙と騒音」   北里義之
      「前衛劇であること/ないこと」   西堂行人
      「刻み続けるリズムによせて―OM-2『9/NINE』評」   宮川麻理子
      「我もまた父親殺しの共犯者―OM-2の『9/NINE』を観て」三宅昭良
  2.世界の演劇vol.2 台灣演劇の今
      「日本を越えたテント芝居」   林于竝(台灣)



 

「維新派の旅は「死者」に始まり、「聖女」で終わった」九鬼葉子
「転がる若人に苔は生えない」鈴木励滋
「弓と音楽」塚本知佳


 
「ここで生きていたい」波田野淳紘 / 820製作所
「演劇の「豊かさ」について」 萩原雄太 / 劇団「かもめマシーン」