“政治的でない人はいない”と“表現をしない人はいない”は、同一線上にある“意識”であり“生活”そのものではないのか?
牛川紀政(音響家)

 1966年、品川区生まれ。劇団兼イベント会社で演劇・イベントの音響始める。クラブDJをしながら楽器店4年間勤務を挟み、ダンサー野和田恵里花と出会い再びフリーの舞台音響に。Nomade~s、ほうほう堂、金魚、チェルフィッチュ、LUDENS、まことクラヴ、大橋可也&ダンサーズ、BABY-Q、輝く未来、珍しいキノコ舞踊団、BATIK、サンプル、モメラス、オフィスマウンテン…etc 2017年~、立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。  
 「政治と舞台について」というお題で、artissue編集部から執筆依頼があり、大分日数が経ってしまった。普段からTwitterで、舞台の裏方を生業としながらも、現政権になってからポリティカルな話題を中心に呟いてはいる。しかし、いざ何千字以上でお願いしますと言われるとなかなか難しい。今回も何回も書き直しては2000字前後を行ったり来たりした。いかんせん140字に慣れすぎてしまった、いわゆるTwitter脳になってしまっていたから。
 そこで、その2000字前後のものは一旦チャラにして、2015年チェルフィッチュツアーで体験した、2度のテロとのニアミスについて記録を綴ったブログを転載して、字数を稼ぐことにした。
 というのは嘘で、それだけではなく、実際に今回のテーマにうってつけであることに気がついたからである。結果、依頼された字数を大幅に越えるものになってしまった。
 それは、2015年11月に入って、両国で大橋可也&ダンサーズの公演と、浅草で岩淵多喜子振付のインテグレイテッドダンスカンパニー響の公演をやった直後に、チェルフィッチュ帯同メンバーより単身1日遅れでツアーに合流するため、ヘルシンキの空港到着後直ぐに劇場に向かって、仕込みをしたのが幕開けのツアーだった。
United Nations Photo
 11月9日に出国、ヘルシンキ、ベイルート、パリの3都市を回り、11月23日に帰国して、11月26日にブログに上げた。それを以下に全文引用する。
 


「平時ではない、舞台芸術の作品の中には人間がいる」2015.11.26

最初に

これはなるべく記録として書いたが、自分の見聞きしたもの、感じたものを、自分の言葉を介して記しているので、主観から離れることはできていない。
これを読んだ関係者の人で、事実誤認があればご指摘ください。

記録

今回のツアーは3都市で、中東のレバノンの首都ベイルートが含まれていた。レバノンと言えばシリアの隣の国。そしてシリアと言えば、ISの活動拠点のある内戦状態の国。外務省ホームページの海外情報でベイルートを見ようとすると、レバノン東側とシリア国境付近のシリア側は、IS活動拠点がなく、内陸側のトルコやイラク側に近い方が危険地帯になっている。反対の、レバノン西側地中海に接するベイルートは、シリア国境からは遠いので安全に思えた。しかしながら1年半前までは自爆テロが何度かあった都市なので、更に情報を集めた。自爆テロがあったのは、ベイルート南郊外にあるヒズボラ活動拠点で、ベイルート市内は比較的安全なこと、外務省ホームページの警戒レベルでは、4つある内の下から2番目「レベル2」で、不要不急の渡航は避けて下さいとあったが、公演目的があるのと、現地スタッフの計画の元にあり(ブリュッセルでクンステンフェスティバルを立ち上げた人が芸術祭をやっている)、今年7年目で海外から幾つかの団体も招聘されている芸術祭なので、不安を抱えながらも行くことにした。在レバノン日本大使館との、何かあった場合の連絡手段、外務省「たびレジ」にも登録をして。

最初はフィンランドの首都ヘルシンキ。その次に、ベイルート公演が正式に決定して、ヘルシンキとパリの間にベイルートが組まれて、1日早く出国が繰り上がった。出国日の11月8日は、日本での現場が元々2つあったので、皆との出発を1日遅らせて9日単身現地入りした。初めて日本を出国して、夕方海外の劇場に入りそのまま仕込みをした。移動と時差ボケと、日本での本番続き、現地の寒さで、ヘルシンキは疲労とのたたかいだったが、次の不安が的中したベイルート公演に比べればまだまだ平和で、評判も良く2日間の公演を無事終えたのだった。

11日ヘルシンキ最終公演後、翌日の12日にパリ経由でベイルートへ。移動時間はホテル to ホテルで約8時間だった。ベイルートの空港には19時到着。荷物は1人ロストで翌日になったが無事に受け取り、一行はタクシー含めて3台で、北のベイルート市内にあるホテルを目指す。空港を出て間も無くすると渋滞箇所があり、我々の車は高速を通ってその渋滞先頭らしきものを横目に、事故?と思いながら通過。20時前にホテル着。ルームキーを受け取り、ロビーでWiFiのパスワードを聞きネットに接続した。

在レバノン日本大使館からのお知らせメール。タイトルに「テロ事件の発生」。以下引用。

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大使館からのお知らせ(ベイルート南郊外におけるテロ事件の発生)

本日1800時頃ベイルート南郊外のダーヒィエ地区のブルジュ・ブラジネ付近において爆発事件が発生しました。一部報道では自爆テロによるものとされており、同爆発事故により複数の死傷者が発生しています。

現在レバノンに滞在されている皆様につきましては、同地域及びその周辺への立ち入りは避けて下さい。

在レバノン日本国大使館
領事班
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引用終わり。

この他にも外務省からメールあり、注意喚起のリンクが貼ってあった。

つまり、ベイルート空港到着約1時間前に、空港を北に出て直ぐの所にある同地区商店街で自爆テロが2度あり、その事件約1時間半後に、それで出来ていた渋滞の横を車で通ってきたのだ、と把握した。
そのままロビーにて、現地主催者側の、「残念ながら」と前置きをして、テロ事件に対する発表と見解、しかしここの地区は安全とのことで普通な感じで、公演続行の意向を聞く。

「まじか…」

これが本心。

ベイルートは、明らかに危ない場所と、私たちがいる安全な場所とに別れているらしいのでそれを信じた。移動のこの日、気持ちを落ち着かせるために取り敢えずビールだと、スタッフもう1人とスーパーを探しにホテルを出た(1人で出る勇気はもちろんない)。途中アーミー服を着た警察だか軍人に尋問され、怪しまれなかったのでスーパーを聞くが、そこはやっていなく、更に探しやっと見つけた店には酒類は売っておらず、血迷ってホテルの隣にあるフィリピン人がやっている、そんなに食いたいとは思っていない寿司屋に入り、やっとビールを飲んで寝た。役者たちも発見できなくホテルのレストランでビールを飲んだと聞いた。

温度差はあれど皆不安を抱えながら、翌日13日朝からスタッフは劇場で仕込み始めた。安全確保のため、全員ホテル劇場間は車の送迎付きを決めて。

13日仕込みの日のランチは、現地アテンドの日本の漫画好き23歳が紹介したいらしい日本でいう渋谷みたいな街で、道玄坂だか宮益坂だかをちょっと上がった所にあるショッピングモールみたいな所の小洒落たレストランに30分ぐらいかけて車で行った。彼のオススメのレバノン料理。野菜が多めでここぞとばかりに補給。美味かった。
この日の後半、照明シュート時間になり、1人早上がりをしてホテルに戻る。時差ボケは解消されておらず、ランチに用意したお弁当サンドイッチと、日本から持ってきた焼酎でチュウハイを作り23時には寝た。

翌日14日早朝、再び地獄の報が届く。13日の夜、パリで同時多発テロ発生。ベイルートとパリの時差は1時間なので、こちらで13日夜ちょうど寝る頃だった。14日朝5時半にツアー同行者と、日本の主催と制作サイドにパリのテロ事件同報メールを送る(ベイルートテロ事件により情報共有に立ち上がったCCメール)。日本では既にパリと連絡を取り合い公演が可能なのか話し合われていると返事があった。パリは16日から乗り込む次の公演予定地。ベイルートに続いてパリも。しかもパリでは劇場で無差別に銃を撃ちまくられ、死者を最多数出している。

「公演中止」

ほとんどのツアー同行者の頭をよぎったと思う。

この日14日は、ベイルートで初日の日。午前中から午後にかけてスタッフの調整がまだ続き、15時から俳優込みでリハーサルがあり、約3時間空けて夜の21時から本番。終わるのが23時で、このあと現地芸術祭主催の乾杯をやるからレストラン予約するが体力的にできるか?と本番前に聞かれたが、連日のテロ事件に加えて夜も遅く、翌日も本番なので明日の公演が終了したらということで、打ち上げに振り替えてもらい初日を迎えた。
劇場は昭和の映画館みたいな客席で、完成時期もそれぐらいに見受けられ、まがりなりにも警備が完全とは言いがたい場所。皆は分からないが、個人的には、生命の危機を意識した初めての本番だった。ベイルートに続きパリ、しかもパリでは劇場を攻撃されている。この2つのテロ事件により、このベイルートでも「スクーターが劇場に突っ込んで自爆したらどうするか?」「銃を持った者が進入して撃ちまくったらどうするか?」など、テロが劇場をターゲットに来たらどうするか?という確率の上がった「もしも?」が去来する中で本番をおこなった。

パリ情報。
14日、初日を迎え無事終えるまでに、日本とパリの芸術祭と会館の間で確認作業、その旨と、パリと日本の制作や主催の意向が、随時同報メールに流れてきていた。
公演を終えてホテルのロビーで、パリに向けた初ミーティング。我々現地にいる人たち以外では、簡単に言うと「パリでの公演を希望している」、ことが伝えられた。

「へぇ、演るんだ?」(笑顔)
「えっ」
「…」

反応は様々。
しかし、これは強制ではない事が強調された。決定権は我々にある。明日15日の朝、本来俳優は遅く劇場入りするのが通常だが、スタッフと同じ時間に入り、朝一でこの件についてミーティングを重ねることが先ず決まった。
朝一でミーティングするにあたり、パリや日本の意向は分かったので、万が一の事態の時、日本にいる続行の意向を伝えた側は、どういう応対があるか?をはっきりさせた上で、それを元にミーティングしたい旨を同報メールに流した。日本から、この作品を演る意義、万が一の時の応対が、15日の朝までに届いていた。

ニュアンスの細部まではここでは書けないので骨格を言うと、こういう時だからこそ芸術の力を発揮したい。我々は芸術で政治に対抗している。しかしながら、保障は保険の範囲内でしか対応できない、これは強制ではないので、1人でも演りたくない者があればパリ公演中止でも問題ない。皆でよく話し合ってください。とても正直に書かれていた。その他の質問にも誠意を持って答えてもらっていた。

15日の朝、劇場に入り先ずミーティング。
とても重たい空気。先ず自分が口火を切った。一言で言うと、命を賭して芸術をすることはない、死んだらその芸術もできない。帰りたいと言うよりも、組織として帰るべきだ。自分がまず、パリには行かず帰国する派の急先鋒になった。もう1人、帰国に傾いて揺れていて、今即決はできない人、あとは行くだけ行って様子をみる人、パリで公演したいと決めている人もいたと思う。それぞれまた再考して、このベイルートの劇場を出る前にもう一度集まって、パリに行くのか、日本に帰るのか決めることにして、それぞれ本番最終日の準備に入った。

2回のベイルート本番は無事に終わらせることができた。しかし怖いのは、パリの話題が持ちきりで、このベイルートは平時のような通常運転になりかけていたように見えたこと。意識していないと人は慣れてしまう。それが今後も気がかりだった。
ベイルート最終ミーティング。決を採り、理由を述べる人は述べた。1人スタッフが口火を切る。行って公演をする。理由は、行かなかったら後悔すると思う。役者は1人を除いて全員行く。その1人はここで決めず明日また答えたい。あとは、前提に問題があると表明した上で、しかし役者が行くならスタッフは行く。
更に話し合い。
結果は、何時でも止めることができる。1人でも帰国したいものがいれば公演を中止する。そしてそれは毎日ミーティングをして確認する。よって、明日16日はまずパリに行く。行ってパリの現状を把握し、劇場のセキュリティ強化要請とそのチェックをして、納得したら公演の準備をする。宿をツインからシングルにしてもらう。ホテル劇場間は車の送迎をつけることもできる。他にもあるが、諸々条件つきの総意でパリ行きは決まった。

16日夜22時頃、パリ15区にあるアパートホテルに到着。17日通常ならスタッフのみ仕込みのため朝から劇場に行くが、セキュリティ強化の結果や避難経路の確認、パリ市内現状把握などをしなければならないので、集合時間を決めて全員で朝一から行くことを確認して解散。夜遅いので空港の売店で飲食物を買ってきたものでそれぞれすます。キッチン付きの部屋なので、朝食は付かない。 しかし、朝食のことまでは考えていなかった。

17日朝、会館の人とパリ日本文化会館に向かう。場所は同じ15区にある。日本の外務省の管轄下にあり、日本の外交の1つ。会館のほうから見て、入り口は手前の車道から死角、反対車線からは遠い、よって外からは銃撃しづらい。普段は入り口で金属探知器だけだが、今回は警備を2人立てて、荷物の中身も見る。他、警備3人付き館内を循環。ホールは建物の地下3階にあり、外からの攻撃はされにくい。警報のテスト、非常口の確認、非常口扉の開閉テスト、避難場所の確認などが行われ、質問にも全て答えてもらった。また、パリ市内の状況は、テロのあったのは金曜日で、土曜、日曜は喪に服すかたちで静かだったが、16日の月曜からは徐々に普段の生活を取り戻そうと活動が活発化。フェスティバルも予定通りあり、他の劇場では1000人(と言っていた気がする)来ていた。カフェでは通り沿いの外にわざと座ろうという運動みたいなのもあったと聞く。また、事件のあったところは、10区と11区で、会館は15区でターゲットになる可能性は低いと。なぜ低いのかはよく分からなかったが。
以上を踏まえてツアーメンバーでミーティングを開始。受け入れ側の誠意は伝わった。あとは信じて演るか演らないか(結局最後は信じるということしかなく、何の生命の保障もない)。今は決められないという意見もあったが、それだとこの後、もし演るとしてもそれから仕込むのでは遅いので、演る方向で今日の仕込みは進めて、明日また始める前にミーティングをして決める、ということで一致。また、新たな犯行声明や、不穏な動きがあっただけでも止めることができることを確認、17日仕込み始める。
ランチ、ツアーメンバー全員はこの時に、現地の人に案内されて、同じ15区内の10分しないところまで歩いて、オススメのレストランで食事をして会館に戻った。これは恐らく説明を聞いて安心したことと、お腹が空いていたことと、やはりパリだからということなどが入り混じっていたのだと思う。
仕事終わりでこの日の夜は、食材を買わないといけないので、役者2人と共に近くのスーパーに買い物に行った。夜は、部屋で別の役者2人と飲んだ。各人の不安や不満をぶつけた。昨夜作った自家製蕎麦つゆで、うどんを茹でて3人で食べた。この部屋飲みが安らぎだ。

18日初日の朝方、今度はパリ市郊外で銃撃戦のニュース。犯人や警官が死亡。
通行人も1人死亡した。
会館で集まってミーティング開始。
まず、フェスティバル側から昨日までのパリ市内、人の動きの説明、会館側からは今朝の銃撃戦の説明があって、流れでそのままリハーサル準備に行くように見えたので、待ったをかけて、銃撃戦の犯人逃亡の行方や、実は経済の街のラ・デファンスでテロ予告があったのを警察が嗅ぎつけて今朝の作戦をしたのでは?と質問した。逃亡者は国境を越えてベルギーに入ったと聞いています。テロ予告は知っていたかは分からなかったが、ここ15区は安心ですなどの答えを貰った。そして、ちゃんと決を取って貰いたいことを主張。結果、役者は全員演るとのことで一致。初日は決行。昨日より迷いはなかった。銃撃戦はテロではなく、警察の作戦でテロを未然に防いだという解釈だと思う。

18日本番初日。
観客席は少しだけ空き。もっと空いていると予想したのは外れた。開演後直ぐに緊張しているのは我々だけではなく、この空間全体だと感じた。本番というのは余程のことがないと止めることはできない。リハーサルと違って我々は丸腰の状態。特に役者は矢面に立っている。そこに観客も対峙している。テロ実行犯がどちら側に立つかで銃器と対面するかが決まる。セキュリティがしっかりされていてもそういう想像は働く。しかし「信じて」演る。そういう緊張。

初日後の夜は、緊張感からか疲れが凄かった。会館ロビーで初日乾杯がセッティングされ、皆ホッとしたのか笑顔で飲んでいる様子だが、内心は読み取れない。女性の館長の話、「ここは絶対に大丈夫、テロにあうことはありませんよ」。嘘でもそうなのか?(現地の人にそう言われるとホッとする)となりそうになる。そして館長から、レセプションにいた現地老夫婦がこう言ったと聞かされる。
「劇場がやられたら劇場に来る。これが我々のレジスタンスだ」と。 22時に帰ってきて、何人かでホテルのレストランのビールを一本だけ飲もうとなり、店の人にもう閉まるんだとか言われながら「一本だけお願い!」と、ごり押ししてお疲れ乾杯して解散した。

19日本番2日目。
慣れというのは怖いものだ。昨夜の初日レセプションで安心したのか、通常運転のような準備と本番が行われた。音響トラブルもあり、待ったをかけるタイミングを失っていた。公演後に役者全員が参加するアフタートークもあるため、その打ち合わせやセッティングの準備もあって普通に流れた。「しまった!」この日はこれだけが残った。
アフタートークの印象。
今回演出家が同行していないため、役者参加のQ&Aが行われた。残った観客は、デザイン系の大学生で、今回は、舞台美術を観る授業をやっているらしい。トーク最後に、今回テロがあったが、という話題になり、パリの学生がどうして本番を演ることになったのか?という質問。普通なら帰国するという前提の質問だろう。役者の1人が、パリ市内の状況、会館のセキュリティ強化など説明を聞いてやることにしたみたいなことを言って、通訳が訳すと拍手が起きた。別の役者の1人が、でも怖いですけど、皆さんはどうですか?と学生たちに質問したら、驚くことにほぼ全員が怖くないと首を横に振った。何故か問うと、15区の危険の優先順位は低いし、ここは日本の施設だからと答えた。そして、学生本人はマイクを通していなかったが、通訳がこう訳した。「私たちが劇場に来ることがレジスタンスになる」。またこれか。そこはやはりフランス、即物的、悲観的になりやすい実存主義の影響は強いんだなと思っていたが、それは直ぐに崩れた。終了後、今回テクニカル通訳で入っているフランス人から、「パリの人はそんなにレジスタンスだとは思っていません、少し大袈裟に言っています。何となくですよ」と。もしかしてこれは、日本人がパリの人はこうあってほしいという願望が、意訳に現れているのではないか?仮説が浮上してきた。穿った見方だが、事実はどうであれ、そうであれば我々も本番をしやすくはなる。

この日の夜は、たこ焼き器を持ってきている役者がいたので、部屋でたこ焼き大会が行われた。ホテルの隣が運よくアジアンスーパーで、タコ、出汁入りたこ焼き専用小麦粉、天かす、紅生姜、青海苔、おたふくソースと何でもあった。楽しんだあとは三々五々散り、残った数人だけで、今日の流れてしまった感について、平時ではないので、明日から緊張感を取り戻したいと伝えた。

20日会館集合時、再び通常運転で公演準備にいきそうになったので、今度は待ったをかけた。約束した通り、今日本番をやるかやらないか決を取りませんか?と問うたら、ここにいるということは演るということでは?となったので、意思を確認するために集まっているので、しっかり手続きを踏んだほうがいいのでは?と伝えた。決、役者全員演る。3日目の本番も無事に終えた。
この日の夜は、隣がアジアンスーパーをいいことに、江戸前鮨を握らせてもらった。フェスティバルや、会館の人からも今夜は皆で飲みませんか?と誘われたが、鮨やるためにネタは買ってしまっているので、ホテル部屋握り鮨に逆にご招待した。
深夜、また三々五々で残った3人だけで話した。少人数になると割とシビアな話もしやすくなる。毎回集まっているのは決を取るため。何となく流されて本番やって、何かあった場合、そんなはずじゃなかったとならないためにも、約束した通り決を取って、意思を聞くべきだと話した。口が酸っぱくなっていった。

4日目の21日はマチソワ。
2回とも本番前に、今度はしっかり決を取った。結果、マチソワともに演る。

最終公演終了後、今までにない緊張の氷解。ハイになっていたのが急に切れた感じ。ばらし終わって、疲労もあり遅いのでホテルで軽く飲み。全員参加した。
この打ち上げでの印象的な言葉。これは書くのをためらったがやはり書く。役者の1人、

「自分が制作だったら止(と)める。でも役者だから演る」。
(ニュアンスは読み取られないように消して書いてます)

翌日は飛行機に乗って日本に帰るのみ。ロシア機のこともある。まだ安心はできなかった。

帰国翌日の24日報道
パリ近郊のモンルージュは14区の南側直ぐ下の街。私たちが公演をした劇場とホテルは15区にあった。そのモンルージュで自爆ベルトが見つかった。

後記

今回のことは、簡単には総括できない、納めることのできないセンシティブな感情がツアーメンバーにはそれぞれあると思っています。大袈裟ではなく、ある者はPTSDになってしまうのでは?という心配もある。簡単に公演を「演る」と書いているように見えますが、決してそうではありません。タフな人は問題ありませんが、重責を全うした人は特に心配です。まわりの方はケアをお願いします。

また、誰かに批判が向かうとすれば、それは拙速に書いたこの記録のせいです。 そこはなるべく早くと思い書いたので、その辺もどうかご了承ください。

このあと見解を書くかも?しれません。

~引用終わり~

http://blog.livedoor.jp/gotenyamanoushi/archives/2065554.html (編集部注:引用箇所の一部に対し、誤字・脱字のみ修正を加えております)


 

https://wikitravel.org/shared/File:Paris_overview_map_with_listings.png
 このブログで何かとわたしが仕切っているように見えるのは、この時はたまたま演出家が同行せず、制作体制は若手1人での初ツアー、俳優スタッフ合わせてわたしが年長者だった。だから使命感があったのだと思う。
 そして、約3年前に書いた“このあと見解を書くかも?しれません”についての応答として、やっとそれは今書くときじゃないかと思い、そのブランクを埋めてみたい。

 我々舞台に関わっている者たちだけが、このテロとのニアミスをしたのかというとそうではない。商店街で買物をしていた人たち(ベイルート)、カフェでコーヒーやビールを飲んでいた、またはライブハウスで音楽に身を任せていた、またはレストランで食事をしていた色々な職業の人たち(パリ)は、実際にテロに巻き込まれている。この人たちは、何を買うか? 何を飲むか? どんな音楽を聴くか? 何を食べるか? という日常の選択肢において表現をした結果、その場に居合わせた。何も舞台に立つ者だけが表現をしているのではなく、皆日常的に表現をしていて、芸術家だけに特化されたものではもちろんない。日本国民であれば、憲法上表現の自由は保証されてもいる。ベイルートとパリではその表現者たち=生活者が狙われ、恐怖に貶められた。
 では狙ってきたのは何か? それは各国の政治の結果で、なるべくして起きたのではないか? と考える。その為政者たちを選んでいるのは一応民主主義を取っている国では、その構成員である全ての表現者=有権者である。つまり我々が、テロが起こっても構わないという人たち=政治家を選んでいると言うこともできる。極論に聞こえるができてしまう。民主主義がしっかり“機能”していれば、テロは起きない“はず”である。何故なら分断させて争わせて戦争で商売している政治家たちが“当選”しているのだから(そう言った意味では民主主義は未完成)。それが実際に起きてしまっているのは、何処かに歪みができているからではないのか?
 ではその歪みを、この日本において見てみる。

 政治とは、“表現であり生活”であると言える。投票好意=表現によってどういう政策を掲げる政治家を選ぶか、つまりどういう生活をしたいか? どういう仕事のあり方がいいか? どういういう経済政策がいいか? 格差は是正したほうがいいのか? 分断されて争わされていいのか? その分断で戦争しなければならないのか? 等の選択=選挙=表現で、有権者は選ぶから/選べるから(有権者は独裁を選ぶこともできる)。しかし、政治とそれらを同一線上のものだと自覚していないある一定の有権者も、「生活」をしている、「表現」をしている、「仕事」をしている、「経済活動」をしている、「格差」で貧しくなる者もいる、「分断」されている、「戦争」したがる人もいるのが現実。
 しかし自覚していない人たちをわたしたちは批判できない。わたしたちが批判を向けるべき対象は、自覚しない人を量産するための政策をとっている、ある一定の政治家たちとその大票田の元である財界(グローバリズム)ではないのか。政治をコントロールするその政治家と財界は、圧倒的な有権者の割合である庶民のほうを向いている振り(パンとサーカス)をして、富裕層が有利になる政策をこっそりとどんどん法案化していっている。そういう意味で、そのある一定の政治家たちと財界は、圧倒的な割合の庶民を二重の意味で政治に目を向かわせないよう“莫迦にしている”と言える。
 一つは、私たちを「小莫迦にしている」という意味でよく使う“莫迦にする”で、もう一つは、政治と生活とが同一線上のものだと気づかれないよう、目覚めさせないよう“莫迦の人達を量産する”という意味での莫迦に“する”こと。この両方の意味で“莫迦にされた”人たちは選挙や政治に関心を持たなくなる。関心が無いということは政治(国会)が存在していないに等しいから、生活への意識を捨てたようなものである=支配層に隷属。権力を振るいたい為政者たちには大変都合のいい“莫迦にする”政策(愚民化政策)ではないか。
 日本の全有権者のうちの僅か20数%の得票率しかない今のとんでも与党が、この国を運営できる理由でもある。選挙に行かない、政治=生活を放棄した60%前後の有権者である私たちはまんまと嵌められているのではないのか? (これは陰謀論ではなく、単純に真の陰謀なのだ。陰謀論は真の陰謀の隠れ蓑で、なんでも陰謀論にしてしまえば本物の陰謀は霞む)

 その両方の“莫迦にする”大量生産装置はいたるところに仕掛けられている。その代表的な装置と言えば、財界がスポンサードする全国版の大手TV/新聞グループだ。財界がスポンサーにあるという事は、報道は財界に不利になることは避ける。ここに偏向報道が生まれる。特にTVは娯楽に紛れ、政治的サブリミナルメッセージがちりばめられていて、安易に流し見をしていると為政者/偽善者たちのバイアスにかかってしまうことが多い。そのため、“娯楽”をTVに独占され過ぎていると、バイアスのかかった日本人しかいなくなってしまう。

 わたしたちが大手メディアや財界と癒着した政界に、カウンターでやるべきことは、“娯楽”を、地域に、街に、または様々なメディア(インディペンデント)に拡張して、沢山の表現があることを60%の人たちに知ってもらうこと以外にないのではないか?

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