木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』
2023年2月2日(木)〜12日(日) 会場 あうるすぽっと
脚本と演出に初めて岡田利規を迎えた木ノ下歌舞伎の新作は、4世鶴屋南北『桜姫東文章』(1817年)。父と弟を殺害されると共に、家宝「都鳥の一巻」も奪われた吉田家の息女・桜姫(石橋静河)は、悲嘆の末に出家の道を選ぶ。そんな桜姫の前に2人の男が現れる。心中相手・白菊丸の生まれ変わりを桜姫に見出す高僧の清玄と、彼女をかつて強姦した悪党・釣鐘権助(成河による二役)である。桜姫は自身への想いを高進させてゆく清玄を拒みつつ、様々な悪事を働く権助に不思議と惹かれてゆく。公家の姫から非人、遊女へと身を堕とす、数奇な桜姫の人生が描かれる作品だ。ベクトルを違える三者の恋を主軸に、濡れ場、殺人、怪奇要素などを盛り込みんだ頽廃的な劇世界。その世界を支えるのは、色欲や金銭欲に突き動かされて、ちょっとした勘違いが決定的な末路を迎えることになる大勢の登場人物たちである。複雑な因果の翻弄を描くスケールの大きな人物模様は、ギリシャ悲劇に通じる。
岡田の手による『桜姫東文章』は、歌舞伎の陰画を前景化した舞台であった。確かに、衣装は原色を基調にしたファッショナブルなもので、俳優の姿がよく映える。権助は袖なしのオレンジのダウンコートを着る。桜姫は、全身を覆うピンクのコートを着物風にアレンジした衣装。遊女に堕ちた後は、透明のレインコートの下に肌を露出する服を着て、黒のサングラスをかけて登場する。松井源吾(板橋優里)の緑のコートも目立つし、他にTシャツやパーカーに短パン、ジャケットを着用した人物も総じてポップである。しかしそれは、冷えた印象を与えるダークブルーの照明と、蔦が生い茂る廃墟を思わせる舞台美術との対比によって際立つものだ。外界から遮断され終末的な印象を与える廃墟という「図」で、「地」としての俳優の姿がくっきりと浮かび上がるのである。俳優は休憩混みの3時間15分、全員が舞台上に出ずっぱりであるが、各場に登場しない者は舞台面に足を投げ出して座ったり、着替えの衣装を吊り下げた舞台下手脇スペースの椅子に座って、舞台の光景を見守る。

©前澤秀登
視覚面では明暗のコントラストが付けられているが、俳優の演技は「図」に溶解するように仕向けられている。そのために舞台総体が、ほとばしる熱度をあえて抑えるように統一されている。これまでの木ノ下歌舞伎では、杉原邦夫(KUNIO)を筆頭に、多田淳之介(東京デスロック)、糸井幸之介(FUKAIPRODUCE羽衣)といった面々を演出に招いてきた。彼らによる演出では、歌舞伎の演目に沿った物語や登場人物を、現代の日本人の身体に引きつける作品を創造してきた。したがって歌舞伎の現代化を支えてきたのは、日常的な台詞回しを駆使する等身大の若者の姿である。心中や借金について時になよなよとして思い悩んだり、怒りにまかせて身体全体で走り回ったりする若者の群像が、現代における歌舞伎のケレン味を体現してきた。本作に登場する俳優たちは、そういった身体ではない。一見して了解されるのは、無感情、無表情であることに務め、棒立ちとも言える俳優たちの居方である。長いモノローグを喋る際には、往年のチェルフィッチュ的な、話しながら手足が無意識のうちに左右にふらつく動きを見せはする。本作でなされるそのような所作は、かなり緩慢でゆっくりとした動きであるため、かつて「ダンス」とも評された類には見えない。また「超現代口語演劇」を担ってきた岡田らしく、台詞はかみ砕かれている。その台詞を俳優たちは、無軌道な身体の状態から、そのまま舞台空間に投げ出すように語る。その様は現代の若者というよりも、機械や人形に近い。感移入型の俳優術を採らない岡田らしい演出だとは思いつつも、これまでの木ノ下歌舞伎の俳優たちの演技とは隔絶している。なぜ俳優はそのような居方で舞台上に存在し、魂が抜けたような演技なのか。当初は戸惑わされる。
ところが、ひっかかりを与えられる俳優の演技には不思議な求心力があり、終始飽きさせることがない。『桜姫東文章』の物語と、俳優の独特な居方と発語の絡まり合いを読み取るべく、観客は思考を巡らされる。その作業が、観客に能動的な舞台への参加を促すからである。長時間に渡って観客が想像力を働かせ続けられる原動力は、俳優の魅力に尽きる。俳優は無機的ではあるが、実は一様に声に力がある。俳優は役を生きたり過度に演じることはない。その代わりに、的確に相手の胸元に届けるべく明瞭に発語する俳優がいたり、もしくは最初から相手に聞かせることを放棄するように足元に落とすようにと、舞台空間は多様な声で包まれる。無機質ではあるがポップで色鮮やかな衣装を身にまとう俳優たちは、様々に色付いた声によって、まるで人形に魂が宿るような生気を帯びてくるのだ。成河は口を大きく開けて力むことなく、明瞭に遠くまで届く力のある声を出して、清玄と権助の二役を演じる。石橋静河の桜姫はユニセックスな存在感によって、肉感的な湿り気や艶やかさな臭気を放つことなく、公家の姫から遊女までを見せる。武谷公雄の長浦は、ちょっとした身体の角度や手の動かし方で、女形顔負けの演技。入間悪五郎の足立智充は、悪辣かつ豪快。小柄な体格の森田真和は、つま先立ちで大きく見せながら、力強く言葉を発して、入間悪五郎と対立する粟津七郎を演じる。残月の谷山知宏は何をしでかすか分からない静かな狂気の佇まいと、頭から声を出すような甲高い声が魅力的で、荒川良々を彷彿とさせた。チェルフィッチュ作品の出演歴がある板橋優里の松井源吾は、人を挑発するような台詞をかなり小さな声で発語する点で、無機質さでは最も突出している。それが笑いを生むとぼたキャラクターになっていた。俳優は複数の役柄を兼ねるが、成河が清玄と権助を演じることに象徴されるように、善人と悪人を演じて人間の両面を表現するように仕組まれている。
上手奥には音響ブースがあり、サウンドデザインを担当した荒木優光による打ち込み音楽が生演奏される。ほぼ全編に流れるレゲエのようなリズムが、不気味な信号のようなトーンを作り出す。幼児の泣き声は、マイクを通して変換された俳優の声で表現される。衣装・声・音響が、人形や機械を思わせる俳優に彩りを与え、図に溶解しながらもくっきりと地として浮かび上がらせる、だまし絵のような光景を創り出すのである。さらに刀を用いた立ち回りや、相手の腕と首を掴んでの床への押し倒し、そして責める者と責められる者の緊迫感を表現する「さあさあさあ」の台詞もある。それらを行なう際の所作は、ゼンマイ仕掛けの人形のようなゆっくりとしたものであり、相手に直接触れることはないため、フリとしてなされる。また、舞台面で控える俳優から、随所に大向こうも入る。時に脇見しながら小声で発せられるため、俳優に届けるつもりはないようだ。それぞれの俳優に固有の屋号が付けられているが、板橋優里にかけられる「ポメラニアン」は、板橋の無気力な声と佇まいと妙に合致しておかしみを生む。

©前澤秀登
これまで述べてきた俳優たちの演技は、本作の物語と歌舞伎を相対化するためであることが、しだいに了解される。そのことがはっきりするのは、三幕「郡司兵衛内の場」だ。ここで起こる凄惨な光景を覗き見していた入間渥五郎の手下・土手助(石倉来輝)が、「歌舞伎って残酷ですよね」と観客に解説するように述べて、共感の場を作り出す。1817年の初演以来、上演されていないらしいこの場で飛び出す台詞にこそ、本作の要がある。「郡司兵衛内の場」とはこういうものだ。吉田家の寺子屋を取り仕切る山田郡治兵衛(武谷公雄)には、小雛(板橋優里)という娘がおり、稲野谷半兵衛(足立智充)の許婚であった。ある日、寺子屋にやってきた半兵衛は、居候する弟の半十郎(石倉来輝)と小雛が不義密通を犯していると決めつける。認めなければ腹を切ると言い出した半兵衛に対し、何度も申し開きをする半十郎であったが、ついには自分は何もやましいところがないがと言いながら、ついには無実の罪を認めてしまう。すると半兵衛は、武士のけじめとして半十郎の首をはねる。そして半兵衛から身内の不始末を問われた郡治兵衛も、小雛の首をはねることになってしまう。マネキンの白い首を手にした二人は、これをおたずね者になっている桜姫とその弟・松若丸(安部萌)のものにすることにする。
岡田は本作を創るにあたり、原作の「翻訳」に徹し、余計な演出を加えることを排したと当日パンフレットに記している。様々な趣向を凝らして絢爛豪華な世界を具現化する歌舞伎は、江戸の庶民が愛した大衆劇である。しかし現代の目から改めて検討すれば、倫理的に理解できないことが多々あるのではないか。それを様式や古典として糊塗して享受してはいないか。岡田は現代から見た批評性を特に強調していないと記しているが、やはり土手助の言葉からは、歌舞伎の異様な物語展開を露わにせずにはおかない。ちょっとした勘違いが思わぬ伏線となり、まったく関係のない人間の人生が大きく左右され、身を落としたり粛清されてしまう不条理さ。そのことを粒立てる台詞は、この後にもある。第四幕。桜姫に使える局の長浦(武谷公雄)と清玄の弟子・残月(谷山知宏)が、清玄が手にする香箱に金目の物が入っていると勘違いし、それを奪うために青とかげ入りの毒を暴行の末に飲ませて殺害する。殺害の末に単なる香箱であることが判明した後、残月は「コスパ最低の殺人しちゃった」と言う。はたまた、数々の悪事を働いてきた権助が、「墓堀りが色男とは世界のタガが外れてねじれている」と発言するシーンもある。
これらの台詞が演目内の物語を貫いて、歌舞伎そのものを相対化するのである。そのことが見えてきた時、機械的で無気力でさえあるような俳優の演技も、それを具体化するものであったことが得心できるのである。岡田による超現代口語演劇の長いモノローグには、一人称の私として語っている内に、いつしか彼や彼女といった自分ではない三人称の出来事や発言へとスライドしてゆく。それらをひっくるめて、小説を朗読する様に近い台詞を発語する俳優は、一対一に対応した役柄を演じる者ではない。語りの体系に登場する人物の台詞やその者たちが織りなす出来事を、距離をもって観客に報告、あるいはプレゼンするような身体としてある。本作でなされた、俳優が内面の感情を乗せて発語することを抑制したり、ゼンマイ人形のように動くのも、かねてより実行していたチェルフィッチュ的な演技を敷衍したものなのだ。そのことによって、複雑な人間関係の動きと企みや、それがもたらす奇異な世界観、つまり作品の骨組みが冷静な目線で明らかになる。考えてみれば当然ながら、死んだ清玄が雷で一度は蘇生したり、桜姫の枕元に幽霊として現れる本作は、現代劇では表現しようがない。歌舞伎役者の演技も、日常的な意味でのリアルなものではない。歌舞伎というフィクションを成立させるために、400年以上の時間をかけて今のような様式性へと至ったのである。歌舞伎俳優のような演技ができるわけではない現代劇の俳優が、それでも歌舞伎の世界を現代劇として成立させるにはいかにすれば良いのか。木ノ下歌舞伎の挑戦はその作業に取り組んできたわけだが、岡田によって採られたのは、観客が感情によって流されないよう、冷静に演目と歌舞伎の世界が判断できるように仕向けることであった。その芯になるのが、歌舞伎俳優の陰画としての俳優の居方だったのである。

©前澤秀登
歌舞伎の陰画としての批評性に関してもう1点重要なのは、ジェンダーの視点である。不合理な立場に置かれて差別されてきた女性の抗議が、舞台後半には盛り込まれている。それが明らかになるのは5幕の、お十(安部萌)の存在である。まずはお十の悲惨な運命が描かれる「山の宿町権助住居の場」について触れる。長屋の大家になっている権助は、地域の人々を取りまとめている。ある日、町内の捨て子をどうするかと相談を持ちかけられた権助は、三両二分を用意してくれたら自分が引き取ると申し出て、引き受ける。そんな折に権助の下へ、有明仙太郎(森田真和)とその妻・お十夫が金銭トラブルの相談をしに訪ねてくる。実はこの捨て子は、仙太郎がお十に内緒で捨てた預かり子であった。そしてこの預かり子は桜姫の子供であり、清玄が育てていたのだった。実子を亡くしたばかりのお十は、やつれながら子供を育てる清玄を見かねて、自分は乳も出るからと言って、彼から預かっていた。子供の来歴をすべて知っていた権助は、そのことを夫妻に暴露し、20両で彼らに再び押し付けようとする。捨て子を介して権助は、金銭を莫大に得ようと画策していたのである。しかし20両の大金を出せる余裕は夫妻にはもちろんない。それならと、乳が出るお十を置いていけと告げて、権助は仙太郎を長屋から追い出す。そしてさらに、清玄の幽霊を見ると客とトラブルを起こしていた桜姫の代わりに、お十を遊郭に送り込むことを決めてしまう。物のように扱われ、この先の人生を決められてしまう一連の展開を受けて、女性の不遇さをボソッとつぶやくお十。終始ガムを噛んで、白いバックを手にふらふらと左右に揺れるだけのお十は、その後も舞台の後方でだらりとした身体で、呆けたように舞台上に存在し続ける。幽霊のように不気味に揺れ続けるお十の姿に、虐げられてきた女性の無言の抵抗が仮託されている。
また本作のラストは、父と梅若丸を殺害し、都鳥の一巻を盗んだすべての犯人が権助であることを知った桜姫が、自分の子供と権助を殺し、家宝を取り戻す。しかし本作では、手にした都鳥の一巻を舞台中央の穴に投げ込んで幕となる。その際、桜姫の隣にはお十が佇む。お家の再興が示唆される原作の幕切れを、女性たちが明確にNOを突き付けるラストに変更されている。そのことは、歌舞伎の物語世界を突き抜けて、女性の地位がまだまだ男性と平等ではない、現代の世界に対する否定である。そしてそれは、非道な戦争が起こっている今の時代の批評である。ひどい世界観は歌舞伎だけの虚構ではなく、今まさに世界で起こっていることなのだ。歌舞伎を引き算した芸術が能だと言われることがある。本作はきらびやかで欲望が渦巻く歌舞伎の劇空間から各種の要素を取り除き、それでもなお成立する歌舞伎とは何かを追求した。その象徴が熱度の低い俳優の演技による、歌舞伎の陰画としての舞台であった。無気力で無表情な俳優たちは、もう一つの歌舞伎を提示してみせた。それに留まらず、多性的な声によって静かに現実を批判し、歌舞伎演目の外部に出る同時代性をも獲得したのである。
もう一点、演技に付随して印象深いのは字幕の効果である。舞台美術中央の柱に、幕名とこれから起こる展開が随時記される。俳優はそれをしっかりと確認してから、字幕で記された概要を詳しく演じてみせる格好になっている。字幕の役割は解説であり、ほぼナレーションと同義である。しかしそれだけでなく、これまで述べてきた演技の相対化に則った岡田の演技や劇作論の視覚化でもある。なぜなら岡田が紡ぎ出す台詞で有名な「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど」(『三月の5日間』)という文体と、ここでの字幕の役割は対応しているからだ。そのことは、役柄と演じる俳優が対応せずに語る主体が移行し、全体的に第三者の目線で演技する俳優の在り方にも相即している。それらはすべて、チェルフィッチュの舞台の冒頭で宣言される、あらかじめ劇であり、虚構であることを示す距離感を保つことへと収斂される。本作ではそのことが、俳優の演技とはまた別立てで、演目を適宜解説する字幕としても外部化されているのである。

©前澤秀登
そんな難しいことは措いておいても、字幕の使用は歌舞伎を見る上で単純に親切だ。歌舞伎の演目は登場人物が多く関係性が入り組んでいるため、事前にあらすじを読んでいても何度も観ていないと筋が分かり難い。字幕によってあらかじめ展開を予告することは、イヤホンガイドに代わる良い補助機能になっている。字幕の使用ということで言えば、何といってもブレヒトの舞台における異化効果であろう。ブレヒトは、観客が物語や役に感情移入することを防ぎ、舞台を批判的に観ることを目論んだ。本作における字幕の使用も当然、ブレヒト的な使用方法に当たるのだが、歌舞伎を批判的に観るためにはまず筋が分かる必要がある。字幕の導入による親切なガイドにより、観客は歌舞伎の演目を理解した上で、舞台総体で今日との同質性と違和を重ね合わせて観ることができる。そういう意味では、歌舞伎の大衆性を現代に担保する字幕の使い方は、発見だったのではないか。
他に気になった演出について記しておく。清玄の幽霊を簡単な目鼻を付けたチューブマンで表現した演出はいささか突飛で、別の意味で浮いているように感じた。しかし雷を表現するシーンでは、下手側上方から白い照明が強烈に照らされ、割れたガラスを透して舞台に注ぐ。廃墟の舞台空間をより強調し、ホラーテイストを与えて効果的であった。
INDEXに戻る