諷誦、砂、黒板―戦争と原爆の「実感」を得るために
藤原央登
(劇評家)  

烏丸ストロークロック×五色劇場『新平和』
 2021年12月24日(金)〜26日(日) 会場 THEATRE E9 KYOTO
 2022年3月3日(木)〜6日(日) 会場 こまばアゴラ劇場
 2022年3月12日(土)&13日(日) 会場 三股町立文化会館ホール


 2016年に結成された広島の五色劇場が、京都の劇団・烏丸ストロークロックの柳沼昭徳を迎えて行ったプロジェクト「原爆を今、演劇にする」から生まれた作品。俳優たちが3年間に渡って資料を渉猟し、被爆体験者や戦争体験者たちへのヒアリングを基に2019年に広島と福岡で上演した。この度、京都・東京・宮崎の三大都市ツアーで再演した。太平洋戦争では、アメリカによって広島と長崎に原爆が投下された。東日本大震災で発生した津波は、福島第一原子力発電所のメルトダウン(炉心溶融)を引き起こした。核爆弾の悲惨さを含む戦争の記憶をいかに継承するか。そのことが問われて久しい。
 また自国民の保護を名目に2月24日にウクライナに侵攻したロシアは同日、チェルノブイリ原子力発電所を占拠した。その後も3月4日には南東部のザポリージャ原子力発電所を砲撃。6日と10には東部ハリコフの小型研究用原子炉がある「物理技術研究所」が、ロシア軍の砲撃を受けた。今いる場所からいかにして戦争の実感を得ることが可能か。そのことは、日本から離れた国で現在に起こっている戦争への眼差しを、どう持てば良いのかという問題にも通じている。諷誦される台詞とそれを受け止める俳優の身体、そして抽象的な空間の中で際立つ具体物。本作の上演スタイルからは、創り手が戦争と原爆を確かな実感として受け止めようとする意志を感じさせられた。


©井上嘉和
  広島出身で介護施設で暮らす栗原チエ子(東圭香)は、同地で戦争と原爆の語り部を務めた。彼女が介護職員の若者(澤雅展)に、自身の戦争体験を語って聞かせた日々―2016年5月の広島平和公園内、その後の介護施設内、2016年8月6日の広島平和公園内―を描く3幕。2016年といえば、5月27日に当時のアメリカ大統領だったバラク・オバマが、大統領として初めて広島を訪問した年である。オバマ大統領は広島平和記念資料館を視察した後に、広島平和記念公園で「核兵器のない世界」を訴え、同年にノーベル平和賞を受賞した。
 その前年の2015年は、敗戦から70年の節目の年であった。この年の最大のトピックは、当時の第三次安倍内閣による平和安全法制の成立である。政府はかねてより、集団的自衛権の行使は憲法違反と答弁してきた。それを一部容認する法案が成立する過程で、国論は賛成と反対で二分された。戦後の時間的な節目や日本の安全保障の転換となった当時の空気を背景に、チエ子と若者は広島平和記念公園を歩く。そこでチエ子は、この辺りはかつて旧中島地区と呼ばれ、様々な商店の他にモダンな喫茶店や劇場もある繁華街であったことを若者に話す。しかし原爆が投下された後は、様々な瓦礫を踏み固めて公園を整備したと述べる。当時の街並みが地層に閉じ込められた場所を歩きながら若者に語る内に、チエ子は戦前・戦中の街並みや人々を走馬灯のように回想する。年老いた自分に、原爆で亡くなった小学校時代の幼馴染や母、学徒出陣した兄・正一、近所に住んでいた在日朝鮮人の英子といった人々が語りかけ、かつての生活を再現するのだ。マスク姿のチエ子はほぼ無言で、ぼんやりとした表情である。洋服店の娘だった幼馴染の家で、真っ白なセーラー服を見つけてこっそりと着用したこと。戦争帰りの板前のおじさんに釣った鮎を焼いてもらい、妊娠中だったおじさんの妻のお腹を触ったこと。何よりも、家族とのやり取りが胸を打つ。英子は日本人から差別されながら、風呂屋で働いていた。直接会うことがはばかられる英子と正一の間を取り持ち、彼女から預かったお守りを、出征前の兄に届けたこと。そして正一の出征前に撮った、写真館での最後の家族写真。緊張するチエ子の姿を見て笑った家族たちを切り取る、マグネシウムの光。それが原爆の投下による閃光に重ね合わされる。一瞬に放たれる強烈な照明が、家族のささやかな時間を封じ込めるフラッシュと、人類悪としての原爆の威力を同時に示して切ない余韻を残す。
 チエ子は現在と過去の境界線がなくなった、浮遊した時空間にしばしば誘われる。そんなチエ子の台詞は、舞台後景に控えた俳優たちによる諷誦でなされる。彼らは他の登場人物を演じ終えた後に、譜面台がある後景に移動する。そして時折り台本に目をやりながら、チエ子の台詞を全員で、時には数人や一人で割り振って発話する。フォトショップのレイヤー(写真やペイントをほどこした透明フィルム)で例えれば、現在の街並みとはすべからく、時の経過による変化を記したレイヤーを積み重ねてできている。広島平和記念公園を歩くチエ子が見る風景は、逆にレイヤーが一枚ずつ外れてゆくようなものである。チエ子のぼんやりとした表情とゆっくりとした足取りからは単なる回想というよりも、蘇る記憶に抗えずに現実から遊離し、世界が剥落して一人になってゆくように感じられる。この劇構造は、転形劇場『小町風伝』(作・演出=太田省吾、1977年初演)を思わせる。老婆が古アパートの一室で、かつての恋などを回想する幻想的な作品だ。能舞台で上演された作品だが、厳粛な空間の磁力に戯曲の台詞がはね返されたため、最終的には老婆の台詞が一切カットされた。そして台詞がなくなるに伴い、俳優の動きまで極端に緩慢になった。この作品はその後の『水の駅』(1981年)から始まる「沈黙劇」への扉を開くことになる。腰が曲がったチエ子も、足が悪くて歩行が困難である。チエ子と歩行を介助する若者の関係は、『小町風伝』における老婆とかつての恋人のそれだ。『小町風伝』に倣うことで、戦前・戦中の時間軸を一人の女性に集約させて表現しているのである。
 

©井上嘉和
 また本作で採られた劇スタイルは、戦後数十年経って生まれた者が、戦争をテーマに劇化するためにも最適だったのではないか。俳優たちがチエ子の共感者、影としてのコロスとなってチエ子の台詞を担う。そうすることでチエ子の言葉は、彼女を含む無名の戦争犠牲者の声として聞こえてくる。いわばチエ子は、無名の死者の声を受け止める受容器として存在していたのである。無表情で佇む姿が、よりその感を強める。それはチエ子を演じる俳優自身が、声を受け止める依り代の役割を果たすことに他ならない。俳優が主体的に台詞を発する意味での役を演じれば、物語だけに回収されかねない。しかし本作でのチエ子は、ひたすら自身の台詞=無名の死者の台詞を浴びる。そのことで物語の内容はもとより、目の前にいるチエ子という存在それ自体に注目を促される。『小町風伝』は沈黙と緩慢な動きを通して、観客も自由に妄想しながら劇世界に関与する。それによって舞台と客席の「間」には、むしろ豊穣な言葉や感情が渦巻いて繋がりが生まれる。創り手と観客との協働作業が、能舞台との拮抗を可能にしたのだ。これと同様に、チエ子がどんな人生を辿り、そして何を考えているのかへと観客に思索を促す。加えてチエ子を演じた俳優自身も、言葉を浴びながら観客と共に彼女のことを考えたことだろう。
 眼前の表象に注目させる劇スタイルを採ったことで、「沈黙劇」のような「間」の効果を生んだと言えよう。そして俳優の身体を際立たせ、その様態を通して戦争や核兵器のことを考えることは、語り部の話を聞くことに近い、ある種のドキュメント性を帯びはしまいか。このドキュメント性に基づくリアリティが、戦後の核を巡る様々な事象や現在のロシアのウクライナ侵攻といった、物語を越える拡がりを付与したのである。
 チエ子が戦前・戦中をどう生きたかだけでなく、なぜ語り部になったのかも重要である。チエ子は集団疎開していたために、原爆の被害を受けなかった。原爆投下の翌年に広島に入ったチエ子は、かつての中島地区の惨状を目のあたりにしながら母の骨を探す。そこで戦災孤児に出会くわす一方で、生き残った英子と再会する。初潮を迎えたチエ子の手当てをしてくれた英子は、原爆の被害に遭っていた。英子は後遺症に悩み、結婚も延期となって生活に窮していることをチエ子に話す。唯一の親戚である勝男の養女になって成人したチエ子は、戦前から刊行されていた反戦文芸誌の原稿取りの仕事をしながら、その縁で知り合った栗原と結婚する。父を原爆による白血病で亡くしていた栗原は、この雑誌に関わることで自身も父のことを原稿にすることを決意する。戦争体験を形にし始めた栗原と共に戦後を生きてきたチエ子だったが、2人の間に生まれた子供を早くに亡くしてしまう。赤子の死の原因は、栗原が原爆二世だったから。そのようないわれなき差別を受けたことに加え、自身が原爆の直接の被爆者ではない負い目もあり、以後、チエ子は戦争の話をすることを避けて生きるようになる。
 本作のプロローグとエピローグとして、2015年に催された広島原爆証言会の模様が描かれる。そこに参加したチエ子は、語り手の話が終わってから「うちでも、原爆のこと話してもええでしょうか?」と質問する。原爆被害の非当事者という理由で、戦争体験そのものに口をつぐんできたチエ子が、なぜ語り部をしようと思ったのか。その理由は明確には語られない。しかしきっかけを示唆するシーンが、舞台の終わり近くにある。2016年8月6日の広島平和記念公園は、5月にオバマ大統領が訪問したこともあり、数多くのマスコミのカメラに加えて、ネット右翼とレイシストが核武装や韓国人を排斥する演説を行っていた。若者と共に再訪したチエ子は、年老いた英子から語り部になったことを聞かされる。英子は被爆者であるが、チエ子と同じく証言活動を避けてきた。しかし中学生がいじめで自殺したニュースを孫と見て、自分も子供の頃にイジメらたことを思い出した。そしてあの時、自分をかばってくれた友達がいて救われたように、傍にいる人に寄り添って優しくする気持ちを広げる活動をして、世代を越えた連帯の輪を広げることを決めた。英子はそうチエ子に話す。
 騒がしい平和記念公園で英子の話を聞いたチエ子は、続いて別の騒然とした光景に囚われる。それはまだ瓦礫が散乱する同じ場所で、1946年8月6日に初めての戦没者追悼式が催された日のこと。原爆が投下された午前8時15分に黙祷が行われた。静かな時間が流れる中、ある者が「お父ちゃあああん」と呼んだことがきっかけとなり、あっという間に親しい者を叫ぶ声でその場が包まれた。チエ子も知らぬ間に亡くなった家族を呼んでいた。戦争という破局的な悲劇においては、身近な家族や友人が犠牲となる。絶対悪としての戦争の悲惨さとその抑止を、被体験者の肌身に迫るものとして伝えるには、誰もがいる親しい者との個的な関係が断たれたり、生活が寸断されることの恐怖や悲しみを伝えることが第一義である。人間としての当たり前の感情に訴えての反戦の表明は、立派な思想やイデオロギーと同等かそれ以上に、血肉が通っている分だけ力強い。英子は横とのつながりを求めて語り部を担った。同じくチエ子もあの時の悲しみを根拠に、戦後70年以上経った今日と過去をつなげようとしたのではないか。チエ子にとっては、今後も同じような被害者を生み出すことがないよう、未来への警句を発することが、今を生きる人へ寄り添うことになる。そのことによって、家族を始めとする無名の死者の弔いにもなることだろう。そういう意味でも、チエ子の身体は過去と未来をつなぐ結節点なのかもしれない。
 

©井上嘉和
 2017年に亡くなったチエ子が持っていた杖にピンスポットが当たる中、俳優全員がそれを眺め、チエ子がなぜ語り部になったのかを考え続けると述べて舞台は終わる。チエ子が語り部になった動機を探ることはすなわち、被爆体験者にヒアリングして作品を創った創り手はもちろんのこと観客に対しても、なぜかつての戦争を知り、語り継ぐ必要があるのかを問い返すことに他ならない。その仕掛けのひとつが、無名の死者の集合体としてのチエ子の声を、演じる俳優自身が現在進行形で受け止める諷誦であった。それに合わせてチエ子を無言にすることで、過去の悲劇を物語としてだけ受容されるのではない、目の前で起こることから何事かを感得させる、『小町風伝』に通じる劇スタイルに至った。その他に、舞台表象へと誘う重要なアイテムが2点ある。砂と黒板である。劇中、若者は天井からドサッと降りかかる砂を頭からかぶる。かなり細かいために軽さを感じさせる砂は、若者の身体を通して床に落ちる。そして劇が進むうちに俳優たちの歩行などによって拡がり、床が汚されてゆく。汚れた床は原爆の灰や骨、瓦礫に見えてくる。俳優が砂を被り、裸足の足裏でそれを感じることが重要なのは、そのことが戦争と原爆に言及する上での「実感」の拠り所となるからだ。砂はチエ子と彼女を演じる俳優の関係性を、他の俳優にも適応させるためのアイテムなのだ。
 巨大で横長の黒板は、俳優が諷誦するさらに後ろ、舞台奥の壁に設置されている。初めに「栗原チエ子」と右隅に縦書きされ、舞台の進行に沿って子供時代の回想に入った時に、左隅に「山本チエ子」と旧姓が縦書きされる。その後も、勝男の養女になった際の「新保チエ子」の名や戦争詩や戦争にまつわる単語、そして原爆の犠牲者を思わせる人影などが次々と書かれる。最終的には、それらで黒板が埋め尽くされる。そして最後に、チエ子が永眠した「2017年」が記される。烏丸ストロークロックの舞台は、抽象的な舞台美術が特徴である。東日本大震災と東北の山岳信仰が題材になった『まほろばの景 2020』(2020年2月、東京芸術劇場 シアターイースト)では、組み上げたパイプで東北の山を表現する、冷え冷えとした独特の舞台空間だった。本作も砂と巨大な黒板以外は、むき出しの簡素な空間である。抽象的な空間の中で、ポイントを絞って砂と黒板を際立たせたからこそ、戦争や原爆へのフックとなる「実感」を観客にも与えた。
 本作は初演から3年経っての再演である。2020年に柳沼は「1945ひろしまタイムライン」に関わっている。2020年の現在と同日同時刻の75年前の広島は、どのような状況だったのか。残された当時の3人の日記を基に、1945年に生きる3人がTwitterでツイートをする企画であった。市井の人々が見聞きした等身大の言葉は、現在を生きる者と同じ目線だからこそ、例えば自分が当時を生きていたらといった想いへと駆り立たせられる。この企画は現在に過去を混入させてつながりを持たせ、今とあの日の連続性と差異を感得させることが目的だったと言えよう。2019年に本作の初演を創作したことが、コンセプトに関連性のある「1945ひろしまタイムライン」へと派生したように感じる。だがこの企画は残念ながら、ツイートの内容を巡って炎上してしまった。とはいえ柳沼と俳優たちが取り組んできた、いかに戦争と原爆を受け止めるかという試みの重要性は変わらない。そのことが、語り部となったチエ子の動機を探り続けることに仮託されている。その絶えざる思考と試行のプロセスが、次世代によるさらなる戦争と原爆を語り継ぐことになるのである。


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