現代演劇にはめずらしく左派批判を含んだ「政治劇」
藤原央登
(劇評家)  

ホエイ『スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア』
2018年8月18日(土)~27日(月) 会場 こまばアゴラ劇場

  中学校の教室という閉鎖空間を舞台に、凄惨で異常な光景が繰り広げられる作品だ。笑いを軸にそこに向けてエスカレートしてゆく様は、スラップスティック的である。語られる内容は、表層的にはいじめや暴力である。社会の縮図としての教室。大人社会で起こることのすべては、子供の人間関係に集約されている。閉鎖空間における対人関係のパワーバランスを通して、人間の本性や機微を描くことはままある。本作も当初はこのような路線で展開される。しかし本作の瞠目すべき点は、不条理的ですらあるスラップステックの面である。ひねりが効いたスラップステックな笑いが劇にドライブ感を生み出し、それと共にいつしか「常識」を離れて凄惨な光景に至る。そこに私は、戦後日本の新左翼運動の興隆と敗退、あるいは欧米における排外主義的な極右政党が伸張する現状況を重ねて観た。とりわけ新左翼運動の終焉を決定付けたのは、連合赤軍によるあさま山荘事件(1972年)と、その後に発覚した山岳ベース事件(1971-72年)であった。群馬県のアジトで軍事訓練を行っていた29名の連合赤軍のメンバーたちが、「総括」と称して12名の仲間をリンチで殺し合った。その異常さによって、新左翼運動への一般市民の離反を決定付けた。そして、通常では理解しえないこの結果は、ほんのささやかな諍いや個人的な私怨がきっかけだったことが指摘されている(例えば大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 』角川文庫、2001年)。教室という閉鎖空間で起こるスラップスティック劇は、私には政治運動体が最終的に異様な末路へと至る過程に思えてならなかった。そういう意味で本作には、現代演劇でははなかなか見ることがない左派批判を据えた劇として、特異さと独自性が認められるのである。

  舞台は当初、演劇の特性を前面に押し出した喜劇として進行する。大人が中学生を演じることからしてまさにそうだ。1年生から3年生までの7人の複式学級。彼らはあるゲームというかおまじないに興じる。人には自分を守護するメンバー・守護メンがいる。自らの力を引き出してくれる守護メンと対話をすることで、人は心の迷いや不安から解放される。3年生の守康(大竹直)が、別の学校の生徒から守護神を見分ける方法を教わった。天照大神が守護メンだという守康が、男子生徒の守護メンを言い当ててゆく。3年生の健太郎(武谷公雄)には大黒天、2年生の祐一(斉藤祐一)には大天使ミカエル、シンジ(河村竜也)にはポセイドンが、1年生の山田(山田百次)には不動明王が憑いているという。そして守康は、学校の向かいのマンションの窓に張り付いてこちらを見ている、無数の悪霊を発見する。困惑する生徒に守康は、守護メンとの対話を重ねれば見えるようになると答える。しかし突然、守康を信奉する祐一が「ああ! あああ! 守康くん見えるよ!」と言いはじめる。守康は、いち早く守護メンとの対話が成功した祐一を称える。その様子を見て、「……相当な数だな」と言って設定に便乗しはじめるシンジがおかしい。こちらに向かって来た悪霊を素手で掴み、地面に叩きつけて退治した守康は、これで悪霊を刺激したため、これから一斉に攻撃してくるだろうと告げる。一人ひとりの力は弱いが、皆でフォーメーションを組み、力を合わせて悪霊たちを倒そうと守康は提案する。自分たちは選ばれた人間だと言う守康の勢いに飲まれ、生徒たちはすっかり正義の味方の気分になる。


©田中流
  とても中学生とは思えない、子供のような遊びに没頭する様子が描かれる。とはいえ、ないものをあると思い込んでそのように振る舞うごっこ遊びは、「PLAY」としての演劇の基本でかつ本質である。グラウンドの外まで悪霊が来ていると言うシンジに、守康は前もって教室に結界を張ったからここには入ってこないと答える。このやりとりに象徴されるように、後付けで何とでも都合良く解決してしまうのがごっこ遊びの特徴だ。このような演劇の特性を利用し、大人の俳優が子供のように本気でごっこ遊びに取り組む様はくだらないが、それが上手ければ上手いほど笑いが生まれ観客もノッてくる。そのような無邪気な笑いがあった。そして、ごっこ遊びを支える信じること、思い込むことが本作のキーワードにもなっている。この点を過剰に過激に推し進めてゆくことで、無邪気な笑いからスラップスティックな笑いを経て、後味の悪い残酷な悲喜劇へと至るのだ。

  次にスラップスティックな笑いについて触れておこう。生徒たちが協力して悪霊を退治しようと構えたその時、1年生の舞(赤刎千久子)が「(背中が)重いよ~、なんかいる! なんかいる!」と言って座り込む。舞を介抱しようとした3年生のナナ子(鈴木智香子)であったが、彼女は突然、悪魔のような形相と野太い声で暴言を吐く。かわいらしい女の子から、おぞましいダミ声で卑猥な言葉を吐く二重人格を、鈴木は瞬時に入れ替えて演じる。ワハハ本舗・久本雅美の「オカルト二人羽織」を思い出させる捨て身の演技が印象深い。このような異常が、その後生徒全員に生じる。シンジは身体が魚臭いと上半身裸になって教室を飛び出し、祐一は左手の自由が利かず誰かれ構わず掴みかかってしまう。健太郎は過呼吸になり、山田は身体が熱いともんどり打つ。この混乱の中、担任の高野真奈美(永宝千晶)がやってくるが、「オチンチンが無くなりました!」と焦ってジャージをまさぐる守康にそれを確認するよう迫られてしまう。つまり、彼らは守護メンの特徴が悪い方向に出て発作に見舞われたのだ。まさに、学級崩壊状態のカオスな状況に陥って一幕が終わる。ごっこ遊びに興じるあまりに全員がその世界に没入した結果、全員が悪霊に憑かれてしまったのだ。ここに、スラップスティックとしか言いようのない、どたばた喜劇の頂点がある。

  二幕は、ごっこ遊びに水を差すきっかけとなった舞の異変を責める裁判が展開される。ここから舞台は単なる喜劇の枠を超え、集団心理による抑圧と特異な論理で支配されてゆく共同体の恐ろしさが貌を出す。裁判の過程で、舞に異変が起きたのは、心に生じた隙間に悪霊が入り込んだからだと結論付けられる。心の隙間に悪霊は浸け込む。だから、心に隙間が生じた瞬間を冷静に見つめ直し告白してほしい。心の隙間とは不安や迷い、死への恐怖であり、それらに打ち克つために必要な過程だ。そのような心の亀裂を正視することができれば、そこに守護メンの力を送って悪霊を倒すことができる。その暁には、本当の革命戦士になることができる。守康を筆頭に、彼らは舞にそのように説く。そして悪霊と戦う舞を見張るため、彼女を壁際に寄せた教壇の下に閉じ込めてしまう。

  彼らは「カノジョ」と称した、守護メンの力を実体化させる人形―ウルトラマンやガンプラ、ドラゴンボール人形―を持って来ている。ショボい人形を持ってきた健太郎をからかったり、持ってくることを忘れた山田を「バカ!」と言うなど子供っぽさが残っている。また、教壇から舞が逃げらないようにジャージのズボンを脱がせる行為には、典型的ないじめを感じさせる。しかしここには、単なる子供のいじめや大人社会の縮図といったものとは別の異様さがある。その理由は、「革命戦士」という言葉が登場したからである。この言葉を念頭に置くと、心の隙間を払拭するための論理もまた違った響きを持って聞こえてくる。ここまでの一連の裁判に流れる論理は以下のようなものである。まず、革命戦士になるという絶対的で壮大な理想を金科玉条にして、それに反する集団内の不都合な意見や存在は否定される。だがその否定は、ある者を最終的に高次のレベルで肯定するための通過儀礼である。教壇に閉じ込められた舞は辛いだろうが、そうしなければならない我々も同じく辛い。それも、舞が革命戦士になるためには仕方がないのだ。我々は舞が変革するためには応援を惜しまない。このように迫るリーダー=守康の言葉によって舞は反省を強いられる。そして他の生徒はリーダーに反論できず、従わざるを得ない緊張感を伴った生まれる。

  こういった要素は、一幕のごっこ遊びにすでに孕まれていた。だがその時は、単なるごっこ遊びで片付けられる他愛のないものであった。恐ろしいのは、同じ要素が二幕においては「常人」では理解できない独特な論理と雰囲気に取って代わっていることである。舞が総括という名の自己批判を要求されていると見れば、山岳ベースにおける集団リンチの構図にそっくり当てはまる。そう考えれば「革命戦士」の他にも、「選ばれた人間」や「セクト」「自立」という単語が出現することを考え合わせれば、この舞台はかつての新左翼運動を念頭に置いていることがうかがい知れる。のみならず担任の高野の存在によって、その目差しは現代における主義や思想をも射程に収めていることが明らかになるのだが、そのことは後述する。


©田中流
  自己批判を求められた舞は、心の隙間が生まれた瞬間が分かったと述べる。男子生徒たちが悪霊と対峙していた時、自分は体調が悪くなったが場を乱すと思い必死に耐えていた。しかし、ナナ子が「保健室へ行く?」と声をかけた時に気が緩み、そこから背中に異常を感じた。きっと先にナナ子に悪霊が憑いていて、自らにも悪霊が入るようにそそのかしたに違いない。その証拠に背中の違和感を感じた後、ナナ子は豹変した。こう告発した舞は、自分と同じく今度はナナ子を裁くように要求し、彼女を教壇下に閉じ込める。そして舞は、守康の机の中から彼に宛てたナナ子のラブレターを取り出す。これがナナ子の心に隙間があったことの証拠だという。それを具体的に検証するため、舞はラブレターを守康に朗読するよう迫る。ここで注目すべきは舞の変化である。いつしか命令口調となって声に力が入った舞は、ナナ子と守康をつるし上げることで主導権を取り始める。ナナ子からの淡い恋心が綴られたラブレターを守康に朗読させるという辱めを与えた結果、一番心に隙間があるのは守康だと生徒たちは責める。この時の舞は、山岳ベースにおけるリンチ事件の首謀者の一人、永田洋子を思わせるものがあった。リンチで死亡した遠山美枝子は化粧っ気のある女性で、金子みちよはもう一人の首謀者・森恒夫の瞳を「かわいい」と発言した。そのことが、永田の怒りを買ったと『「彼女たち」の連合赤軍』には記されている。その趣旨は、永田は被害者たちの女性らしい面や男に媚態を示す態度に、自分とは正反対でなりたくてもそうはなれない自分の嫉妬心が搔き立てられたという。つまり、革命戦士としての自覚云々は他者の言動を封殺する都合の良い言い訳でしかなく、その根底には私怨があった。舞の、ナナ子と守康への難詰はラブレターという恋愛がらみであること。そして、舞は自分にキスしたら許してあげると守康に求めること。卑近な理由がつるし上げの根底にあることが描かれている点で、舞が永田であることと、山岳ベースにおける連合赤軍の謂いがここでは認められる。

  つるし上げて殺害するという、一般的には理解しにくい陰惨な光景に至る発端には、本作でいえばごっこ遊びや好きな男の子が別の女子からラブレターをもらったといった極私的な嫉妬があること。戦後の新左翼集団の内ゲバはもちろんのこと、オウム真理教の一連のテロ事件も卑近な理由が発端の理由だったのではないか。そのようなことを想像させる。ここまでの展開は、戦後日本の新左翼運動とそれに類する過激派集団の成立の過程が克明に描かれていた。

  それだけでなく、本作の底流に流れる新左翼運動への批評性は、現代の極端な右派・左派をも含んでいる。その思いを際立たせる重要な人物が、担任の高野である。自由と平等が信条であるリベラリストの高野は、突然激高するエキセントリックな人物なのだが、とりわけ恐ろしさを感じさせるのは、突拍子もない極端な主張をたびたび挟み込む点である。北海道の土地を中国資本が買い占めていることに対しては、これから日本社会は少子高齢化で人口が減り過疎化が進むのだから、むしろ「くれてやりましょう!」。すると、今よりもっと中国人の来日が増えて「プラマイゼロ!」と発言したことを皮切りに、マスコミを「マスゴミ」と呼んで毛嫌いしつつも「朝日は別ですよ」「AERAは定期購読!」と言う。他にも、「悪いのは、靖国君が代、日の丸だ!」「憧れの、中華人民共和国!」「は~、中国っていい国っ!」などと発言し、その度に「リピートアフタミーセイ!」とそれらの言葉を生徒に復唱させる。真紅のブラウスを着た高野を演じた永宝は、涼しい顔と歯切れの良い口調で、何の疑いもない様子で中国共産主義を賛美する。彼女のその賛美は、ざらついた抵抗感を私に生じさせた。規律や制度による縛りを排し、個人の自由を説く高野が、最も独善的で他者を抑圧しているという構図が言葉の端々に表れている。高野を含めた教師たちは、卒業式で日の丸の掲揚と君が代の斉唱を求めた校長とモメていたという。その校長は失踪中である。以前、教師と校長の言い争いを聞いたという舞に、マスゴミにあることないこと詮索されないよう、校長に関することを外部に口外しないよう高野は何度もくぎを刺す。かつては校長と肉体関係があったことも匂わせる高野は、もしかしたら校長をリンチした可能性もある。主義と愛憎がないまぜとなった新左翼のリンチが、「大人」の世界でも繰り広げられているのだ。

  最終的にはそんな高野が、教室内の異様な共同体のリーダーとなる。話は模擬裁判の最終場面、舞が守康にキスを求めたところに戻る。その結果、舞はナナ子と守康との間に生まれた「罪の子」を産み落とす。その汚らわしい「罪の子」を葬ることで守康を救うことを提案する舞。それに応じて、大黒天こと、インドの古代神・破壊神シヴァを守護メンとする健太郎が床に叩きつけて葬り去る。そこへ教室へ入ってきた高野が、自習を言いつけたのに遊んでいる彼らを咎める。しかし、これまでの一連のごっこ遊びを説明された高野は、すんなりとその世界に入り込む。そして生徒たちに、人は誰しも心に隙間が生じて不安を抱えてしまう。ゆえに今後も「罪の子」は産まれる。それを回避するためには心をなくすことが必要だと説き、急遽「心の卒業式」が執り行われる。卒業証書が高野の愛読書である『AERA』なのには笑わせられる。全員に証書が渡った後、生徒たちは目がうつろになって感情が伴わなずうわの空で会話を始める。誰もが心を失い、恐怖や不安、死の元凶である心の隙間から開放されたのだ。しかしそのことは同時に、他者を労ったり気持ちを推し量ろうとする気持ちの喪失をも示す。権威から自由になったことを示すため、高野は教室に掲げられた校長の肖像画をはずすようシンジに命ずる。高所恐怖症であることを理由に嫌がるシンジだが、生徒たちが机と椅子で組み上げた3段の足場に昇って実行する。案の定、シンジは降りることができない。助けを訴えるシンジだが、すでに心を失っている生徒は「ボクは高い所にいないからさ、怖くないんだよ~」などととうつろに答えるだけ。そして、シンジを放って教室を後にしようとした高野と生徒たちだったが、山田だけはそんな彼らの態度に対して「目の前に困ってる人がいる! それなのに、みんなひどい」と批判する。しっかりとした声の山田だけは、どうやら感情の喪失を免れているようだ。「カノジョ」を探しに出ていた山田は、懐に近所の寺から持ち出した仏像と位牌を入れていた。そこに「守護メン」の力が宿って、山田を心の喪失から守ったのであろう。

  ところが、そのことで生じる悲劇が幕切れに訪れる。山田が心から卒業できていないことが問題になるのだ。山田を無事に心から卒業させてあげるため、生徒たちは山田を仰向けに取り押さえ、何度も釘でめった刺しにする。身体に穴を開け、そこから心を出そうとする考えとそれが山田のためであるという身勝手な理屈。二幕の模擬裁判におけるリンチがエスカレートした結果の、壮絶な光景だ。痛がる山田に「オレは痛くないから」と答え、「もう少しだ、がんばれ!」と笑っているようにも見える生徒たちの異様な姿は、本作のチラシにある通り「集団ヒステリー」以外の何ものでもない。

  戦争のない平和のため、格差のない社会を確立するため、そのような世界を実現する自立した個人を確立するためなら暴力は許容されるのか。革命戦士、あるいは心からの開放という大義名分を盾に、遊びが遊びではなくなり集団が暴走する様を描いた本作は、そのように問いかける。笑いを基調にしながらも、異様な共同体の成立と破綻を丁寧に描き、最後には恐怖を観る者に与える。そのような暴走する集団のモデルとして、連合赤軍に類する新左翼集団が描かれているのである。山田のような犠牲者はかつての日本で実際に存在し、そして今も世界のどこかで生まれ続けている。これらの集団の行動理念を一言で「正義のため」とくくってしまえばどうか。ISやアルカイダ、日本における赤報隊やオウム真理教などのテロ集団は当然のことながら、正義の名の下にイラク戦争をしかけたアメリカや一強状態の現日本政府、大国としての台頭がいちじるしい中国にも当てはまる。

  しかし、過激で抑圧的な集団は何もテロ集団や国権を発動し得る国家といった、明らかな権力にだけではない。守康や舞、そして高野のように他者を抑圧して同調させようとする強権的な芽は、思想の左右や規模の大小に関係なくどこにでもある。そのことを、共産主義を何の疑いもなく信奉し、生徒に復唱させる高野が最終的に体現している。左派を揶揄するこの手つきにこそ、私は感心した。そして、高野と生徒との関係性を巡る異様な世界は、演劇の世界/業界をも含んでいるように感じた。戦前には文学と同様に新劇が弾圧され、新築地劇団のように当局によって強制的に解散させられた劇団があった(1940年)。先の大戦末期には大政翼賛体制の下、移動演劇団が戦争を賛美する作品を創った歴史があった。戦後はその反省から、演劇も一貫して反権力を貫き、その精神を様々な形で表現する手段が生まれた。それが今日にいたる現代演劇の源流となった、小劇場演劇(運動)の根本であることは間違いない。それを踏まえた上で、演劇人は右派を批判するリベラルな立場、つまり左派思想であるべきだ。そういった雰囲気を小劇場を巡る状況に感じないわけではない。それはそれで思想が硬直化しているのではないだろうか。現政権を批判し軍国主義に通じるあらゆるイシューを全否定する高野の言動が、結局暴力を生んでしまう結末を見るとそのように思わされる。思想の左右を問わず、極端な主張は結局排外的になってしまう。そのことを常に念頭に置いておく必要があろう。反権力を盾に、演劇に携わる者は左派でなければならないと勝手に思い込み同町圧力を感じて自己規制しているのだとしたら、そこには本作で描かれた罠が潜んでいる。

  近年、自国第一のナショナリズムと排外主義が日本を含めた各国で台頭しつつある。左右を問わず極端な思想に傾倒するのではなく、両方の意見を吟味してバランスを取り、中道の思想を探ろうとすること。こう書くとどっちつかずの国民民主党のように感じられるが、生産性のない暴力=内ゲバを回避するならば、安易に固定化された思想に安住することなく対話を試みようと努力することの方がよほど価値がある。そのようなことを、本作を観ながら考えた。

  本作は2014年に初演された。私は観ていない初演を印象を聞くと、純粋な喜劇の側面が全面に押し出されたものだったという。確かに再演には、初演から4年の月日で起こった世界情勢を踏まえたと思われる台詞が散見される。それゆえにこそ、単なるいじめや大人社会の謂いという一般論を超えた深みを有することになったのであろう。現代演劇において、珍しく左派を批判する作品に出会った。そういう意味では、本作はまぎれもなく「政治的」な作品だったのである。


※台詞の引用は上演台本より

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清純派のHでゆこう!「七つの大罪」と肉体の「生(聖/性)と死(詩)」(批評文体ラボ2)
原田広美
(舞踊評論家・心理療法家)  


©鈴木淑子
主要著書:『舞踏大全~暗黒と光の王国』
『国際コンテンポラリー・ダンス』以上、現代書館
『漱石の〈夢とトラウマ〉』新曜社(9月下旬刊行)


B機関『大山デブコの犯罪』(原作=寺山修司、演出=点滅)
2018年8月21日(火)~26日(日) 会場 ザムザ阿佐谷



  寺山修司が『大山デブコの犯罪』を上演したのは、演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げした1967年。肥満体の実在女優だった大山デブ子の出演が叶わず、オーディションで大山デブコを誕生させた。だが断って置くけど、寺山の台本の内容は、実在の女優だった大山デブ子とは違ってマス。また今回の「B機関」版での芝居の中の大山デブコは、冒頭と終わりに、まるでアンティークのフランス人形風な巨大な頭部=顔(製作:野村直子)と、女性3人が合体して形作った姿として、現れた。だって芝居の中では、すでにデブコは死んでいたから。それからキリスト教の戒めとして知られる「七つの大罪」が、今回は「B機関」版のオリジナル設定としてテーマに挿入されマシタ。

  「七つの大罪」とは、〈嫉妬、怠惰、飽食、傲慢、憤怒、強欲、色欲〉。これが過ぎると最後の審判で、天国に行けないのですネ。「七つの大罪」については、ヒエロニムス・ボッシュ(絵画)やピナ・バウシュ(ダンス)なども取り上げたけど、そこには一つのトリックがある。つまり、いけないものを羅列するという名目で、それら全部を表現できちゃうんです! はみ出し表現が、できちゃうんですネ! 今回の『大山デブコの犯罪』でも、寺山特有のサーカス・見世物小屋風に色めき立つ空間(これも製作:野村さん)の中で、役者さん達の凝りに凝った演技やコスチュームや小物なども伴って、それができちゃいマシタ! それでいて点滅の演出は、どこか耽美でアリマシタ。

  さて、ちなみにボッシュは、麿さん以下、舞踏の「大駱駝艦」の創立メンバー達も意識したフランドル(ベルギー西部:オランダに文化や言葉が近い、アンチ・フランス文化の地域)の画家。かたやバウシュは、実家のカフェ・レストランの客がいるテーブルの下で子供時代の毎晩を過ごし、『緑のテーブル』で有名なクルト・ヨースが戦後に設立したエッセンの舞踊学校(今は大学)に学んだ。つまり舞踏の本家筋のノイエ・タンツ(ドイツ表現主義舞踊)から出た、国際的でビッグな女性振付家でした。


  「B機関」の『大山デブコの犯罪』に戻ると、すでに亡くなっているデブコに、それら七つの罪が着せられていた・・。また「七つの大罪」の各々が登場人物の役柄になっていて、皆が各々の「罪深い行為」に耽(ふけ)ってしまう原因までもが、デブコのせいにされていた。また7人は各々の罪が重くなると、各々の罪の特性を表すブタとかオオカミとかウサギなどの動物色が現れて来て、それが被り物なんかで示されマシタ。

  劇の冒頭では、テーブルに3人の男が、〈最後の晩餐〉の絵みたいに客席に向かって並んで座り、パンとワインを飽飲・飽食。その3人とは、ハデハデな衣装と濃い演技で沸かせた「嫉妬の罪」を持つ〈魚釣り男〉である高田那由太、「怠惰の罪」の〈渋めの老童貞〉である近童弐吉、そしてパンを食べて食べまくった「暴食の罪」の笹野茂之でアリマス。

  その中でも、「肉体=下半身(性)」の問題を逃れた「嫉妬の罪」で〈人魚〉になった魚釣り男(高田那由太)は、実はデブコのテテなし娘で「傲慢の罪」を持つ背高な〈美女〉の魔子(葛たか喜代)と、仲が悪かった。〈人魚〉になった男は下半身の問題から解放され、静かに釣りと読書三昧の日々を楽しむが、しだいにデブコを殺した犯人だという真相が暴かれて行く・・。

  だが何より「書を捨てよ町に出よう」の寺山だから、書(=言葉)だけでなく、〈肉体〉を伴う体験が重視されているわけで、そういう意味でも、舞踏出身の点滅の演出感覚は、この台本によく合致してイタ。まずデブコの頭を支えていた3人の女性達(高橋芙実/渡部みか/強口真裕佳)は、アラビア風の薄いベールを顔にかけた半裸で、舞踏チックだった。

  点滅は、土方巽の奥さんだった元藤燁子から、舞踏の聖地だった目黒の「アスベスト館」で舞踏を倣い、このような道に入った。元藤さんが存命だった頃、「天井桟敷」系の高田恵篤にも助人を依頼し、若いダンサー達を映画に出演させたりもした。3人の女性達は、その頃を思い出させるような、四つ足のスバシコイ動き、そしてくねり流れるような立姿の踊りの動線も、速度を持って長く描かれ、もったいぶっていなくて、舞台の中の「今」にほどよく関わりながら、肉体的なインパクトを与えていてよかった。また点滅が演出した女性達の半裸は、胸が美的に隠されて生々しくなく、ほどよい気品があったノモヨカッタ。

  それに加えて、歌ったり(岬花音菜)、ふざけたり(鈴木千晴)の2人を含む、やけにカワイイ、メイド姿の3人娘。ここは、現代風でアッタ。この3人も、ダンスチックも取り入れていて、よく動き回った!! その中の一人の為子(柚木成美)は、「色欲の罪」。そのせいで[貞操帯]を着けさせられ、下腹に巻かれた帯には鍵が下がってイタ。この[貞操帯]について、少々蘊蓄(うんちく)を傾けると、ご存じかもしれないが、ヨーロッパのキリスト教徒さん達が十字軍に行く時、奥さんに別の男が言い寄らないように、着けさせたと言う。



  ところで寺山の『大山デブコの犯罪』の初演が1967年なら、舞踏の創始者の土方巽が一世を風靡したソロ『土方巽と日本人~肉体の叛乱』は、1968年。その時に、土方が腰に付けた人造ペニスも、美術家の土井典が創作した[貞操帯]だった。そして、寺山の映画『さらば箱舟』でも、[貞操帯]は登場する。つまり彼らの時代にとって、[貞操帯]はエロティシズムを呈示する一つのオブジェだったノデス! この為子の[貞操帯]は、劇の終わり近くに鍵が渡され、外れることになるのだが・・。

  それはさておき名女優の田中裕子が、もう随分と前のことだけれど「私は、Hな人間なので」(あるいはそういう意味のことを)と言っていたっけ。ちょうど私も、イニシャルがH.H.だけど、私は特にクリエイションにとってHは大事だと考えて来た。もちろん演技も、舞台というクリエイションに捧げられるもの(クリエイション)ですネ。おそらく点滅さん自身も、「舞台自体が捧げもの」だと思っていることでしょう。そして私は、日々の生活も書き物も、クリエイションだと考えて来た。

  また、ここに書いたHというのは、本来的にはハレンチ(破廉恥)のHなんだろうけど、その後の語用としては、セクシュアルや、セクシー、そしてセックス(性交)などという・・、エロティシズムと性の領域そのものを指す言葉にもなりました。この前、エロティシズムは美学なんだと気づいたばかりだけど、私にとってはHも、ハレンチや〈はしたないもの〉ではなく、必要不可欠な美学デアリマス。と言うより、美学や愛がないHには、寄り付けなかった!?

  ともあれ、とりわけ若い頃の私は、Hなエナジーを肯定しない人のことを信用し切れなかった。すっかり大人になった今では、そのような人にはそれなりに、痛みや抑圧や防衛や逃避があるのだろうと、推測する余裕ができたけれども・・(草食系の人には、申し訳ない言い回し? だけど草食動物も、子孫をつくってマス)。要するに私は、Hと「心身の解放」とクリエイションの関わりは〈とても深いものなのではないか〉、と直観して生きて来たのデス。改めて考えればHなエナジーは、そもそも子供をつくるだけでなく、〈つくる(創る)ためのエナジー〉そのものではないだろうか。

  明治に始まり、徐々に進み、昭和の大戦に至った軍国主義の時代を経て、60年代や70年代は、日本人が心身を、新たな近代感覚を取り入れながら取り戻し、それを解放しようとした時代だった。60年代には、政治的にも主権と解放を求めタ。それは国際的にも、同様デシタ。さきほどは寺山と土方で、1967年、1968年と時を刻んだけれど、ライヒの『性と文化の革命』の邦訳の刊行は1969年デシタ。日本では政治的なパワーの解放が行き詰まり、いよいよ性の解放に梶(かじ)が切られたのかとも推測します(フォークソング『神田川』などはこの時期です)が、『性と文化の革命』のドイツ語原本の刊行は、1936年デシタ。


  それはナチス台頭の3年後ですネ。ナチスは何とも忌まわしいエナジーの「解放」を弱者への暴力と偏見と差別と〈抑圧〉と、〈権威〉への服従を伴う組織化の中でしてしまったわけですが、「解放」という現象自体としては、ライヒの研究も同じの空気の中で連動する部分があったのでしょうか。ライヒの書物は、その後のヒッピー文化の支えにもなり、Love&Peaceの彼らが目指したのはナチスとは正反対の「自由で平等な共同体」でしたが・・。しかし、やはりエゴや暴力や争いや嫉妬も出たりして、簡単ではナカッタ。それらに直接的な影響を与えた英語訳『セクシャル・レボルーション』の刊行は、戦後すぐの1946年デシタ。

  著者のライヒは、『性格分析』や「筋肉の鎧説」などでも国際的に知られていますが、晩年はアメリカでオルゴン・エネルギーのオルゴン・ボックスで失敗。ですが、ウィキペディアを開くと、次のような記述もある人です。「13歳のとき母親が家庭教師と寝ているところをライヒが父親に密告し母親が自殺。17歳の時に父親が自殺同然の死に方をする。法学部に入学するが、その後ウィーン大学医学部に入学しなおした。学生時代から精神分析について学び、敬愛する同じユダヤ系のジークムント・フロイトから指導を受けた。フロイト派の精神分析家として活動し、自身の研究を植物神経療法として発展させたが、ライヒ自身はフロイトから嫌われていて、そのため深刻なノイローゼ状態になったこともある。」

  性的なエネルギーでもあるリビドーの領域を含む無意識について提唱し、そこに切り込んで行ったのはフロイト自身だったけれど、フロイトはユダヤ人だけで精神分析のグループを形成するのを怖れ、ユングを厚遇。また自分以上に、さらに心身(精神と肉体/無意識と身体)の関係性に鋭く切り込もうとするライヒを遠ざけたよう。また同じくナチスから逃れた渡米後に、ポスト・モダンダンスの母と言われるアンナ・ハルプリンに影響を与えたゲシュタルト療法のパールズも、フロイトからほぼ同様な感触で扱われました。パールズの主眼は〈性〉ではなく、演劇・舞踊的あるいは日常の「〈今ここにいる存在としての身体〉と〈深層心理(無意識)〉との関係」デシタ。ですが、「生き生きとした〈感受性と反応〉」を常に最重視しましたから、そこに〈性〉のエナジーの肉体的な源泉や発露を感じマス。

  ライヒとパールズは、まだ欧州にいた一時期には、精神分析医として師弟関係だったこともあり、基本的な「人間観」が近かった。要するに「情念や肉欲」に隣接して、「心身の同じレベルの層(レイヤー)」に、深い感情(喜怒哀楽)が「トラウマ」と共に抑圧されているのだという・・。やがては両者(ライヒとパールズ)とも精神分析を超え、そのように深層に抑圧された感情やエナジーを解放するためのワークを開発し、個々人のクリエイティヴィティ―・オブ・ライフ(生活や活動の「創造性」)を高めるためのエナジーに転換しようとうした点も、共通していました。考案したワークの方法や活動は、まったく別でしたが・。

  それから今回、これを書きながら改めて思ったのは、ある意味でライヒは母親に対する思いに端を発した研究人生を歩んだのかな、ということです。ついでに書くと、キリスト教(特にカソリック)では、Hなエナジーは信者のレベルでは概(おおむ)ね「否定(全否定では、子供が生まれない)」されていました。ですが、たとえば礫刑から降ろされたキリストをマリアが抱いているピエタ(ミケランジェロ作の彫像が有名)に託された法悦(エクスタシー)、あるいはキリストやマリアや聖人像や、それらの絵に託された法悦、つまりキリスト教の中心軸にこそ、Hなエナジーは集約されていたわけですネ。それは、アートがすべて宗教に従属していた時代でもアリマシタ。

  さてさて、閑話休題。『大山デブコ』です! コスチュームも演技も、皆さん「これでもか」の感で頑張っていましたが、他の方々も紹介します。「憤怒の罪」の昭和の魂の刑事である成田浬、「強欲の罪」のフタナリであるサーカスの団長の中村天誅、「パン運搬人」の骸男と「蝶を追う美少年」の2役を演じた田代哲也、そして強い個性をそれぞれ発揮した「肉体美」ミスター・日本の原島正喜、手品使いで「魔法使い」の魔法つかいKOJI、怪傑ゾロリで「色男」(これも成田浬さん)。それから子供役で「呪われた童話・天使」の辻真梨乃と、「堕天使」ルシファーの点滅さん。点滅さんの役柄は、元の台本にはないらしいです。



  後半の詰めの辺りで、点滅さんと天使役の辻さんが、吸い付くような空気と目線を伴って重なり立ち、手足をスッと動かし、また体の向きを替えながら踊る場面がとてもヨカッタ!! どぎついまでのいくつもの個性が輝く中で、一服の静謐な「愛の場面」に見えたのです!!

  他の場面と皆様方も凄くいいんだけど、この場面の精神的な境地も高かった!! 私の好きなプレスリーの『愛さずにはいられない』のように・。私自身はプレスリー世代より下ですが、プレスリーは住居地区の関係から黒人教会に通って育ち、黒人霊歌の影響を受けたために「歌唱の境地」が高かったのではないかと聞いてマス。この場面の点滅さんらしい「純愛的H感覚(エロティシズム)の充足」が、他の華々しい場面や役柄を対比的に引き立てる効果があったと思うのです。

  それから『毛皮のマリー』のマリー役を点滅さんの下で演じたこともあるというデブコの娘役の美女の魔子(葛たか喜代)さんも魅力的でした。黒っぽい口紅が、スッとした御姿によく似合ってイタ。彼女は、母デブコのことを好意的に語っていました。それでネタバレ的になりますが、・・もう終演したからいいか!? ・・結局、人魚になって「肉体=下半身(性)」の問題から逃れた「嫉妬の罪」の(高田那由太)が、娼婦のデブコをうまく抱けなかったコンプレックスから、デブコを殺したことが判明し・・。つまり一番、威張って安泰に見えた彼が犯人だったというワケナノデシタ・・。

  それで為子の[貞操帯]も解かれる時期を迎え、大団円的なメンバー総出のフィナーレがやって来て、デブコの母を殺した高田が、自らを銃殺する銃殺音で終わりマス・・。「七つの大罪」というテーマの挿入は、点滅さんの演出の新しさだったとしても、劇全体の骨格は、やはり若者達が「性の解放」をテーマの一つとして重視した時代色を濃厚に伝える寺山の劇だなアと思いました。

  しかし「七つの大罪」に、童貞が入っているという感覚もスゴイですネ!! 面白いです!! 「肉欲」から逃れていることが「罪」なんですネ。案外、真に現代的なテーマなのかもしれません!? 最近の若者は若者で、自分をさらけ出すのが不安だったり、という性に対する別の課題もあるらしいデスから。でもネ、この劇は本来的には、やっぱり「書を捨てよ町に出よう」の路線だったんでしょう。

  この70年代から健康ブームがいよいよ到来し、ヨガをはじめ、健康器具や、80年代の古今東西のボディーワークや心身のワーク、竹内敏晴の「砂浜の出会い」(私がこれをすべて肯定しているわけもないんですが)などの時代へと流れて行きました。でもでも「性や心身の解放」やら「七つの大罪」とか言っても、最終的に生きる糧になるのは(仕事であれ人生であれ)「純愛」なんだろうと思うワケです。ギリシャ神話のパンドラの箱からも、すべての「悪と災い」の後、最後には「希望」が出てきたように!! それで私には、点滅さんと辻さんの「愛の場面」(この場面の名づけ親は私です)があって、とてもよかったと思われたのでアリマシタ。これは暑かった「あの夏の日」の思い出です・・。


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21世紀の世界をいかに「歩く」べきか
藤原央登
(劇評家)

東京デスロック + 第12言語演劇スタジオ『가모메 カルメギ』
2018年6月30日(土)~7月8日(日) 会場 KAAT神奈川芸術劇場
2018年7月13日(金)~7月15日(日) 会場 三重県文化会館
2018年7月20日(金)~7月22日(日) 会場 AI・HALL 伊丹市立演劇ホール
2018年7月27日(金)~7月28日(土) 会場 富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ


©bozzo
  チェーホフ『かもめ』を日帝時代(1910~1945年)の朝鮮に置き換えた本作は、東京デスロックと韓国の第12言語演劇スタジオとの共同制作である。私には日本初演(2014年11月。北九州芸術劇場 小劇場、KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ)よりも興味深く、そしてアクチュアルに響いた。その理由は、初演から4年の推移で起こった様々な変化である。
  日本では安全保障関連法案の成立、現在進行形で尾を引いている森友・加計学園疑惑で、強権的な現政権への批判が高まっている。外国へ目を向ければ、イギリスのEU離脱の決定。TPP、パリ協定、イラン核合意と、一度合意した国際枠組みから離脱したトランプ大統領の就任があった。今年に入ってからも、アメリカと中国や欧州との貿易戦争への懸念。米朝首脳会談を経ても核放棄の見通しが立たない北朝鮮。泥沼の内戦が続くシリア。そこにアメリカ人牧師拘束問題に端を発するアメリカとトルコの対立が生じて、中東に新たな火種が起こっている。クリミヤ併合後に西側諸国と対立しているロシアも、アメリカと中国をにらみながら自身のプレゼンスを示そうとしている。4年の歳月で起こったこれらの事柄は、戦後、アメリカを中心とした自由と民主主義を尊重する国際秩序の変容を示している。その原因の一端は、各国のナショナリズムの高進と自国第一主義による排外主義にある。
  初演時との違いで言えば、個人的には初めて訪韓したことも大きい。私は日韓演劇交流センターが主催する「日本現代戯曲ドラマリーディング2016」で、日本の演劇状況を伝える報告とシンポジウム「抑圧社会と演劇の対応」に参加した。訪韓の数か月前、韓国ではパク・チョンヒ元大統領を風刺する作品を創作したパク・グニョン(劇作家、演出家、劇団コルモッキル主宰)が、韓国政府から助成金を辞退するよう「検閲」を受けたことが伝わった。そのことを受けて、岡田利規と多田淳之介があうるすぽっとで緊急シンポジウムを開催した(詳細レポートは「【緊急連載】韓国の検閲 韓国アーツ・カウンシルの検閲問題」https://spice.eplus.jp/articles/classic)。韓国の問題を私が知った当時、日本でも高市早苗総務相(当時)が、放送局が公平性に欠ける放送を行った場合、電波を停止する可能性があると答弁して問題になっていた。これらの事柄を受けて、日韓共に権力側による表現への規制と圧力が高まっているのではないか。私は件のシンポジウムでそのような危惧を述べて、韓国側のアーティストや評論家からの意見を聞いた。その韓国では、セウォル号沈没事故(2014年4月16日)の対応のまずさに端を欲したパク・クネ大統領(当時)の問題が浮上。そのことがきっかけとなり、パク・クネは韓国憲政史上初の大統領の罷免と逮捕へと至った。


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  舞台に設えられた門。その横木には、韓国語の日本語訳や物語の年月日と場所が適宜投影される。日帝時代の1936~38年。朝鮮軍の小隊長だったチャ・ヌンピョ(クォン・テッキ/『かもめ』におけるソーリンに当たる役)の邸宅のある、延安の湖畔が本作の舞台である。だが、ラストは1895年から2018年までの、世界史で起こった主な歴史トピックが字幕投影される。観客は、現代の服装に着替えた登場人物たちと同じく、淡々と横木に投影される年表を見上げる。当然、初演では年表は2014年で終わっていた。そこに、上記に挙げた出来事が追加された年表を見ていると、いかに日本を含めた国際情勢が混沌としてきているのかに思いが至る。  また舞台は、現代服で登場した間野律子が当時の朝鮮の衣装に着替えて、ヌンピョ家の下男・ミョギという少年役になって舞台に飛び込むことで始まる。始まりから終わりまで、強く「現在」が意識されているのだ。さらに、劇中の1936年~38年の期間に日中戦争が勃発している。戦況の拡大に伴って、朝鮮を植民地にしていた大日本帝国は、朝鮮人の志願兵を募る。劇中、志願兵となったミョギは日の丸を背負って戦地へ出兵する。2015年の安保法制の成立によって、日本が今後戦争にまきこまれるのではないか。そのような懸念によって、戦争に対するリアリティが高まった。初演から4年の年月で、我々は国内外の目まぐるしい変化の「ただ中」を生きていることを肌感覚で体感している。その感覚は、最終的に「戦争」へつながりはしないかという危惧に根差している。だからこそ私は本作に、過去の歴史を絡めたフィクションとしてのチェーホフ劇ではないアクチュアリティを感じたのである。
  つまり、本作は日韓を含めた世界史を、現在を貫いて未来まで見据えた作品なのである。そのことを示す演劇的な最大の効果は、登場人物がとにかく歩くことに尽きる。まず舞台空間の説明をしておこう。斜めに渡された舞台空間。その端と端をつなぐように、先ほど触れた門が大きく設置されている。床面は、おびただしい量の韓国の新聞紙で覆われている。両端には蓄音機やハンガースタンドにかけられた衣服、舞台光景を移すTVモニターが数台置かれている。舞台中央には、斜めにめり込んだ格好のタンス。その脇に椅子が一脚ある。この舞台を、観客は二方向から挟んで観劇することになる。登場人物たちは、この空間を一方向に歩く。去った方向から登場することはない。再登場する際は、客席裏を回り込んでからやってくる。劇中、登場人物たちが会話をしながらやってきて去る様を、連続で何組か見せる。あるいは劇の終わり近く、登場人物たちが出ハケを繰り返してただただ歩くシーンが目を惹く。後者のシーンでは最終的に、12人の登場人物たちがおのおの、舞台空間に横たわる。例えば、ヌンピョの元部下であるイ・ジュング(イ・ユンジェ/シャムラーエフ)の長女・イ・エギョン(オ・ミンジョン/シャムラーエワに近い人物)は出ハケを繰り返すうちに、明らかに歩く姿勢とスピードが変わる。登場人物たちはこの場面で、途中にあるタンスを乗り越えて椅子に降り、そして再び床を歩いて去る。彼女はタンスと椅子を通過する昇降運動において、ついには膝と腰をかばって時間がかかるようになる。そして床に横たわる。歩いて倒れるまでの過程が、一人の人間の生と死を意味しているのである。登場人物には年齢幅がある。だから人によってはすぐに倒れる者がいたり、何週もしてから(長生きしてから)倒れる者がいたりとバラバラだったのだ。俳優が一方向に歩き最後に倒れることが、流れる時間を生きる一人ひとりの人生を浮かび上がらせる。さらに門に投影される年表によって、彼らが歴史の渦中に生きていることも了解させられるのである。これを裏返して言えば、人の歩みによる一日一日の膨大な堆積が、歴史の厚みを形成していることを示す。人は世界史のただ中に生きていると同時に、直接的ではないにせよ歴史の形成に関与しているのだ。だからこそ、本作は未来に向けてどのような歩みをするか/しなければならないのかを投げかけている。初演から4年の間に起こったできごとを念頭に置くことで、そのことを強く惹起させられたのである。
  チェーホフの『かもめ』は要領を得ない会話を通して、無為な日々を過ごす人間を描く。その無為で意味のなさが、すれ違う恋愛模様に象徴されている。まるで暇つぶしのような時間の中ですれ違う人間の滑稽な様態は、現在にも通じる人間存在の希薄さを描いている。一方で『가모메 カルメギ』は、日韓の近代史という点を描くだけでなく、現在と未来をも串刺す幅の広い眼差しがある。そのために、歴史と人間との関わりにおいて、また別の普遍的な本質を炙り出す。両者は一見、真逆の作品のように思えるが、人間の生き方・様態を抉り出す点においては同様の深度があるのだ。


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  その点についての戯曲上の仕掛けが、登場人物に日本人と韓国人を混在させた点である。特に小説家・塚口次郎(佐藤誠/トリゴーリン)と教師・御手洗幸介(夏目慎也/メドヴェージェンコ)は重要である。塚口は女優志望のソン・スニム(チョン・スジ/ニーナ)をかどわかして東京に連れ出し、最終的に破滅させる。そのことが、日本が朝鮮を植民地支配したことを、対人間という小さな関係に落とし込んで表現した。塚口が劇中、ポップス音楽が流れカラフルな照明で空間が照らされる中、サムスンなどのブランド品をたくさん抱えて登場するシーンがある。そのことは韓国の資本を牛耳ったかつての日本人の姿を想起させる。あるいは、財閥優位の格差社会に置かれた現在の韓国の姿をも感じさせる。戦前の日本も財閥優位の社会であった。朝鮮を植民地にした日本と同じ社会体制、歴史を歩んでいることのアイロニーが、塚口に投影された二重のイメージに看守できるのだ。
  その朝鮮人の悲しみは、御手洗と結婚せねばならないイ・エジャ(チェ・ソヨン/マーシャ)にも描かれている。エジャは芸術家志望のリュ・ギヒョク(イ・ガンウク/トレープレフ)に好意を寄せるが、想いは彼には届かない。それだけでなく、朝鮮人に優位にふるまう御手洗に見染められ結婚してしまう。御手洗に「愛子」と名付けられた彼女は、喪服のような黒い服を終始着ている。自らを、朝鮮では縁起の悪い鳥であるカラスに例え、自分で自らの生き方を決めることができない不幸を嘆く。塚口の愛人でギヒョクの母親、女優のチャ・ヌンヒ(ソン・ヨジン/アルカージナ)は、ギヒョクから「倭人達にくっつく恥知らずの朝鮮の女!」と罵られる。そんな彼は農薬を飲んで自殺する。登場する朝鮮人は皆、不自由な生を送る人々である。戦争の影は、志願兵となるミョギを除く者には間接的にしか影響を及ぼさない。彼らの不自由さは『かもめ』のように、恋愛のすれ違いや日々の生活についてのものである。しかし先述したように、そのような不自由な日々を生きる彼らの一歩一歩の積み重ねが、戦争の時代の大枠を形成してもいる。いわば、彼らは歴史に翻弄される被害者であると同時に、知らず知らずの内に歴史に加担する当事者でもある。スニムやエジャの悲しみは自分ではどうにもならないものである。そのことが、人間を翻弄する歴史の不条理の謂いになっているのだ。この、時代の渦中にさらされた人間の受苦的な姿は、虚無的に生きるチェーホフの登場人物の核心と「自分ではどうにもならない」という一点でつながる。事件がほとんど起こらない『かもめ』と本作の登場人物が通じるのは、この意味においてである。
  偶然にも、これに先立って私はもう一本の『かもめ』の改作劇を観ている。本サイトに劇評を書いたmizhen『溶けない世界と』だ(「演劇性を支える、戯曲と演出の混交と齟齬」)。私はこの作品について、演劇的な効果を最大限に引き出しながらも、惚れた腫れたの世界から抜け出せていないと書いた。そこに足りなかったのは、例えば『가모메 カルメギ』のように歴史の「厚み」を導入するというようなことだったのである。
  ある時期から多田は、ありうべき未来、最悪の未来を見据えて、現在の人間へ警句を与える作品を創ってきた。年代の字幕投影、回るミラーボール、派手な照明でショーアップされた空間、大音響で流されるK-POPやJ-POP。多田がかねてより試みてきた手法が、「歩く」という新たな演出が加わって最大限の効果を挙げた。それらすべては、21世紀の世界をいかに「歩く」べきかを観客に問いかけることに合流しているのである。
  最後に俳優について触れる。ギヒョク、スニム、エジャを演じた俳優が非常に印象に残った。時に静かに、時にのた打ち回るほど慟哭する彼らの演技には、情動の振幅がありありと見受けられた。歴史を作りながらその時代に翻弄される人間の様態。この本作の骨格は、内に秘めた怒りや悲しみを自然に表出する俳優が与えた側面も大きかった。


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