小劇場d-倉庫の芸術監督、国内外数々のアートフェスティバルのプロデューサーなど。
  著書に演劇論集『「核」からの視点』(れんが書房新社)、戯曲『架空の花』(而立書房)などがある。



次回公演は今年3月の伊丹と東京ですね。
「ええ。伊丹は約20年振りで会場も同じAI・HALLです。あの時はホント色々大変でした。」

どんなふうだったのですか?
「伊丹の前に東京公演があったのですが、外部のスタッフや出演者が大勢いて…総勢60人くらいかな。その公演の2週間くらい前に僕が入院しちゃったんです。それが原因で、進行がうまくいかなくなって現場は喧々諤々になってしまったらしいんです。僕は病院にいたのですが、現場はもの凄く嫌な雰囲気だったらしくて…。
その後、伊丹公演に向かう途中の高速で事故を起こしてしまい、車は大破、出演者の1/3くらいが入院という事態になってしまって。急遽大阪の劇団に手助けしてもらい公演は打つことができたのですが、東京も伊丹も評判は散々で…。公演が終わってから「二度とこんな公演はしたくない」という不満が吹き出して、劇団員のほとんどが退団してしまい、車などの破損のためにお金はなくなるし…といった感じでした。その後解散も考えたのですが、思い切って当時念願だった海外公演を始めることにしたんです。」

大変な経験でしたね…。海外公演はどうでしたか。
「日本でくすぶってやっていた時とは違ってとても評判が良かったんです。その評判が運よく他の国に繋がり約6年間は国内では公演をせずに海外が主な活動場所となりました。」

最近はアジアが多いみたいですね。
「あの頃までは欧米では前衛的な舞台が求められていました。でも徐々に経済状況が日本と同じように苦しくなってきて、それと同時に保守化して娯楽性、商業性が強いものが求められるようになって、前衛的なフェスティバルとかも少なくなり、徐々に活気がなくなってきて…。それでも日本よりは前衛的なものは多いですが。それとは別に現在の日本は経済的には行き詰まっていますから、僕たちみたいなアウトサイダー的な劇団の海外公演には大きなお金を出してくれなくなった。そのために、僕たちはそれほど大きなお金がかからないアジアに…という感じになってきたんです。今でもヨーロッパからオファーはありますが…。今の日本は商業的に成功するような大型の事業にしかお金を出そうとしませんからね。
あと、今は欧米の文化的価値、例えば欧米的演技のあり方、フォルム優先主義、舞台作りの定形…そういったものにみんなが飽き始めていて、大きな文化的な流れがこれから伸びる可能性のあるアジア、特に中国、韓国にシフトしている感じがあります。欧米の前衛的なフォルムも出尽くした感じがあって、あの価値の延長線上のものしか生まれない気がして…。」

もう、欧米からは新しいものは出ないと…。
「そういう訳ではないでしょうけど、洗練されるか政治的メッセージを掲げるか、娯楽性を含む保守的な方向しか求められなくなってきているので、やりにくいというか難しいのではないかという意味です。日本の舞台も欧米を追従してきたので、その価値自体から抜け出すのは難しいでしょうね。」

3月の公演について聞きたいのですが、どんなテーマなんでしょうか。
「一般的な演劇では「今回はこのテーマで」ってことがスタートラインなんでしょうけど、OM-2の公演ではテーマとかは特別にないんです。それはいつも同じで…一回一回公演ごとに変わるということはないんです。」


「いつか死んでいくであろうすべての者たちへ」(2002)©田中英世

変わらないテーマとはどういうことですか。少し聞かせて下さい。
「僕は、現代人はこの社会の中で自分の選択なんて何もしていないと思っています。社会のすべてが「資本」を優先するように仕組まれていて、個人の選択なんてできないようになっているって。学校や親の教育や人間関係などによって、物事の価値も道徳も、異性の好みも人間の価値自体も、会話の内容も…何が正しいかという事も…。あらゆる選択の基準が「資本」に基づいている。それは選択とは言えないだろうと。

舞台の世界の人間は、ほとんどが売れることを目指しているし、それを当然としている。売れれば勝ちってな感じで…。みんな「自分が、自分が」って感じですよね。でも、どうしてそういった価値観を持つのでしょうか。売れて何が変わるのでしょうか。それは「他の人間より優れていたい」「優越感に浸りたい」「他人よりお金を儲けたい」、それぐらいの理由しかないと思います。そんなことに夢中になるのは何故なんでしょうか。

現代人はいつも、自分を他人より優位な位置に置こうと争っていて、その優位性に満足できるかできないかが重要だといったくらいのレベルで生活しているんじゃないでしょうか。またはその競争に乗り遅れまいとしている気がします。乗り遅れると疎外されたり変人扱いされてしまうからです。もしくはそうされている人を見てきたから…かもしれません。そこには全て「どうして」という理由がありません。「自分の好みだから」「自分のしたいことだから」といった自己中心的価値観を理由として並べるに過ぎません。自分と社会との関係や、舞台を志す理由なんてどこにもないように見えます。どうしてそれが「好みなのか」「したいことなのか」を考えることはしない。自分が他人より優位に立つことにしか関心を持たないんです。言い換えれば、見下されることのリスクを背負いたくないだけという事です。「どうして」を考えないのは、そこにはこの社会に踊らされている自分が見えてしまうからであり、辛くも「自分」だと思っている殻が剥がれてしまうように感じるからだと思います。でもそれを剥がしていかなければ、いつまでたっても自分を客観的に見ることができないし、物事の選択をすることさえできない。「資本」に操られている状態が続くだけです。

「資本」は人と人の競争を煽ることで育ち、成立します。実際、そのために近代は経済成長をしてきたのも事実です。一概に経済成長が悪いとは思っていません。でも、経済成長が等身大の自分より大きくなってきたら話しは別です。人間が人間としてまっとうに生きられなくなり記号とされてしまうなら、それと闘わなければなりません。記号とは生きる屍状態のことです。つまり経済が人間の生き方より上になってしまうことです。

 資本主義といった思想のシステムではなく「資本」という経済の仕組みだけに人間自体が振り回されているのが現代です。つまり現代人は、個人の意思とは別に競争する構造に与みしないと自分にリスクが回ってきてしまうから、悪気なくその構造に屈服していく。それが「資本」の正体です。もちろん、他人より金持ちになりたいために周りの人間を蹴落すような分かりやすい構造から、流行に流されること、「世間」を気にすること、結婚式や誕生日会などのカタチだけの儀式には参加しなければいけないと思っていたり、他人に愛想を振りまき自分の本心を隠そうとすることとか。そういったことを含めて普段当然と思ってやっている小さなことも、自分の行為や考え方すべてが「資本」の進む方向に協力させられている。「資本」は現代人の身体をまるごと包み込んでしまっていて、身体を蝕んで抵抗できないようにさせているのです。政治や教育、マスコミなどの媒体も使って…洗脳を加速させているんです。それは人間が束縛されている状態であるといってもいい。そして現代人は、束縛されていない人間や生き方とはどういうものなのかが既に分からなくなっていて、そこから抜け出せなくなっている。そして自分が束縛されているという自覚を持てないまま、束縛された者同士で固まり仲間意識を高めて均一化し、それが結果的に異質の他者を排除していく。その排他的な構造を自分が作っていることに気付きさえせずに。


「Opus No. 2」-ハムレットマシーンより-(2005)©Otto Müehlethaler

「イジメ」なども同じ構造です。虐める側に立つ人たちは自己本位で保身志向が強いために、「イジメの構造をどうしたらいいか」と考えることをしない。また虐められる側も、その周りで見ている側もまた自己本位であるために自分だけが被害に遭わなければいいと考えるだけです。自分だけが安全なポジションを築くことか、運良く虐められず逃げ切りいい流れに乗ることだけしか望まなくなってしまうんです。だから、例えば学校へ行くのは当然であって、「行くのはなぜなのか」「行く必要などないのではないか」「学校という構造は」などという発想には行き着かないし浮かばない。学校へ行く必要なんてないと考えること自体に罪悪感を持つ人がほとんどです。学校は本来、貧しい子供も等しく教育を受けられるように親が行かせなければならない「義務」だったはずです。それがいつのまにか子供が学校に行くことが義務なんだとすり替わってしまった。虐められて悲惨な状況に置かれることを我慢してまで学校に行く必要などまったくないのは当然のことです。その当然なことが歪められて、教育という名の「資本」の歯車になるために洗脳されに行くことを当然と思わされてしまっているのです。学校は子供が行く権利を持っているというだけで、行く義務を科せられることではないのです。
なぜ学校に行くことを義務としたのか、…それは資本主義社会が持続できにくい構造になって経済が停滞してしまわないようにするためです。ほとんどの人が子供に高い教育を受けさせ金儲けすることが幸せだと思わされているために「資本」と共に一方向に突き進むんです。でもそれが本当に幸せなんでしょうか、正しいのでしょうか。そんなことは本当は分からない。その分からなさを「資本」や権力者が決めることは間違っています。だけど、現代人は子供の頃から一貫してそういう環境に置かれて育っていく訳です。それだからこそ自分だけがリスクを背負わない方がいいと考え、自分だけ金儲けができればいいように思わされて競争させられていく。周りの人間なんてどうでもいいし、「人間はどう生きるべきか」などと考えることを放棄してしまう。それを考えていくと、「資本」のシステムに逆らうことになってしまうからです。
その「資本」のシステムから脱却し、自由になることは簡単なことではありません。これまでの教育や世間の目、正しいと思わされていることや楽しいと思わされていることが山ほどあって、周りにはそういったものしか見えないからです。ですが脱却していかなければ「資本」だけが跋扈する社会になり、流行だけではなく知識や見栄や自己中心的欲望、権力欲などを刺激されて、そういったものを着飾ることを人間の楽しみであると勘違いし、本来の「人間」の生きる喜びを得ることもできない。現代人は既にそうなっているんです。現代人の身体がまるごとそうなってしまっているんです。芸術とはそれを自覚するところから始め、そこから脱却し蝕まれている身体から自由を取り戻していこうとすることです。ですから芸術は結果的には一般的尺度から見たら異端になっていく。そうでなければ「資本」のシステムに回収されているということなのです。

「資本」に逆らおうとしない芸術などありはしない。つまり、そうでない方向のものはエンターテインメントの世界であり、芸術という中身を伴わない記号でしかない。ですからその芸術ではないものに、国や地方自治体が「文化芸術」という冠を付け助成するのはどういうことなんだろうと考えてしまいます。一般の人が経済を優先するなら、芸術家はそれから離れ、異なる身体を、生き方を創り出そうとしなければならない。一般的に議論というものは異質な意見がぶつかり合うから深まるものです。人間の生きかたも異質なものを生み出すことによって深まっていくんです。そして社会も。芸術に公益性があるとすればそこにしかないんです。一般の人たちを娯楽的に楽しませることが芸術の役割ではないし、市民と芸術を近づけようとする運動が盛んですが、そんなことは芸術の異質性を薄め浮かんだアカを広めることでしかないんです。」

作品のテーマというより、芸術の持つべきテーマみたいなものですね。
「ええ、公演としてではなく現在の劇団の活動としてのテーマというか、『「資本」に操られない身体とは』『人間が行うべきまっとうな行為とは』…そういったものを愚直に追い求めること。ですから劇団が人気が出るとかそんなことはどうでもいいことなんです。」 【聞き手/編集部・高松】

【次回公演情報】
OM-2 伊丹・東京新作公演「一方向」
3月16日(土)&17日(日)@AI・HALL(伊丹)
3月23日(土)&24日(日)@日暮里サニーホール(東京)
詳細は、http://om-2.com