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韓国の怪優シム・チョルジョン
2018年4月に開催予定の「ハムレットマシーン」フェスティバルに韓国のシム・チョルジョンが参加する。20年間に渡り、「ハムレットマシーン」の主演俳優として活動し続けてきた彼の魅力に迫る。


沈哲鐘[シム・チョルジョン]
~たった一人の俳優...世界を広げる~
韓允禎 韓国 京郷(キョンヒャン)新聞 文化部記者


沈哲鐘(シム・チョルジョン)
1960年釜山生まれ。1983年に国立劇場研修院を修了した後、「原始人になるための聾唖者の所作」(1986年バタンゴル小劇場)を発表。その後、演出家、俳優として活動。「本」「脱却」「エレファントマン」「99ストレス儀式」などの演出•出演。演劇「ハムレットマシーン」の俳優として20年間の長期公演を行う。映画「刑事」「暗殺」などにも出演。劇団シアターゼロの代表であり一坪劇場を運営している。

 ソウルのど真ん中、1階に食堂や商店が並ぶマンションの鉄門の横に「世界で一番小さな一坪劇場」という小さな立て札が掲げられている。家具や生活備品が一切ないリビング。白い布が壁と壁、壁と天井に三重に取り付けられ垂れ下がっている。
 午後7時30分の公演時間が近づくと、まだ夕日が残っている窓に黒い幕が下りてきて、円筒形のスタンドの明かりが点く。黒ズボンに白のTシャツとワイシャツを着て首に労働者のようにタオルを巻いた沈哲鐘が一人芝居「生きるか死ぬかそれが問題だ」の公演準備を終える。
 案内係がドアを開けて「いらっしゃいませ」と嬉しそうに観客を迎える。観客は緊張と期待で室内を見回している。観客が座布団に座ると沈哲鐘が四色のリボンの中から一つ選んで、手首に巻きつけながら「このリボンが解ける瞬間、幸運が訪れます」と言う。そしてヘッドフォンと目隠しを配る。続いて始まる演劇。さっきまで近所のおじさんのようだった彼が、突然35年の経歴の俳優になる。固い表情でひざまずいて床を見ながら、認知症にかかった母親に言い聞かせる。


©Lee Do-hui
 「お母さん、他の事はみんなは忘れてしまっても数字だけは忘れちゃダメだよ。 9番のバスに乗って、1号線の電車に乗って徳寿宮の前に来て『哲鐘!迎えに来い』と言えばいい。私が誰だか分かる?あんなに可愛がっていた長男だよ。母さん、みんな忘れてしまっても良いけど数字だけは忘れないで…。言ってみて、いち、に、さん、よん…」。その独白の中に男の過去が一つずつ明らかになる。赤い太陽と青い海、その前に立っている子供。小学校の時クレヨンを持たずに学校に行って先生に叱られた日々。絵だけ描いていると怒る父親の前で自分を庇おうと守ってくれた母親のまなざし。東京旅行の時、夕飯に何を食べるかで父と言い争った記憶。7年前に死んだ父、その父を追うように記憶を捨て去った母親。

 彼は突然「私はハムレットだった」と叫んで、「亡くなった父親の棺の上で母親は浮気相手の男と交尾する」と言うセリフを何度となく繰り返す。自らを照らす照明の中でスキンヘッドの沈哲鐘の見開いた目は、グロテスクに観客を直視する。
 続いてパッフェルベルのカノンが徐々に流れてきてテーマは愛に変わる。配られたヘッドフォンをつけるとレナード・コーエンの太い低音で歌う「Famous Blue Raincoat」が聞こえ、俳優の吟ずるような声がこの歌の間に挿入される。「私なしではひと時も生きていけないと言っていた彼女はどこで何をしているのだろうか。愛とはすれ違うこと。一緒に死を迎えることはできないんだね」。
 最後の章は目隠しをして聞く死のドラマだ。「死とは何か。一体何だろう。腹が減っていても舌先に当たるちょっとしょっぱいラーメンの味が分からないと言うことなんだろうな。徳寿宮の石垣塀にもたれかかって満開のバラを眺めながら、あのトゲに刺されたら痛いだろうとも考えられないことなんだろう。憎むことも懐かしむこともできないことなんだろう。そうやって消えていくことなんだろうな」「Over the Rainbow」の旋律の中の最後のセリフ。「あなたは、死後に何になりたいですか?私は青い空になりたい」。

 1時間の公演が幕を下ろした後、室内は沈黙。人生と愛、死まで一時間に凝縮させた公演の中で、それぞれのシーンが走馬灯のように駆け巡っていった。50代の観客ジョン・ソクキュ氏は「俳優が繰り返し聞かせてくれるセリフの中に吸い込まれていく特別な経験」と語った。再び近所のおじさんに戻った沈哲鐘は私に「演劇を見るのは大変だったでしょう」と言いながら、キッチンからミネラルウォーターを持って来てくれた。
 2012年5月、「光化門の時代」と呼ばれるオフィスビルで始まった一坪劇場は「慶熙宮の朝」マンションを経て、今の「大宇マンション」に至るまで続いている。彼が台本、演出、舞台、照明まですべての役割を務めるレパートリーは、最初から今まで「生きるか死ぬかそれが問題だ」の1作品だけだ。多い時で25人、少ない時は1人の観客の前で200回以上の公演を行ってきた。うんざりしないかと尋ねると「全くうんざりしない。私は一坪劇場ではこの演目だけしかしたくない」と言った。公演を見た後、その言葉を理解した。それはその公演が自分の人生が込められた舞台、観客の人生を込めることができる舞台、つまり究極の演劇だったからである。

 一坪劇場以前に、彼は弘益大学前の名物だった小劇場シアターゼロを運営していた。 1998年の駐車場通りにオープンしたシアターゼロは演劇、ダンス、音楽、巫劇、パントマイム、パフォーマンスなどの実験性の強い舞台を紹介しながら、弘大前を若さと実験、サブカルチャーの象徴になるまで大きな役割を果たした。彼と彼の仲間は葬儀に使う神輿(喪輿サンヨ)を持って街中を闊歩したり、車を叩き壊すアバンギャルド的なことを行い、その風景を韓国演劇界の1シーンとしてねじり込ませた。劇場の屋上の手すりに本物の人間のようにぼんやりと座っているオブジェは芸術が孤独な人間の所作であることを雄弁に物語っていた。
 ところが建物の所有者が変わって取り壊すこととなり、2004年閉館することになった。建物を買収したKT&G(タバコ高麗人参公社)はそこに複合文化空間を開館したが、元祖であるシアターゼロの入る余地はなかった。彼の努力と多くの文化人や芸術家の協力の下、KT&Gの支援を受けて弘大前の別の建物に2008年劇場を開いたが、2011年に再び閉館。増える一方の赤字に対処するのが困難だった上、ひどい肝硬変のため、ややもすると余命いくばくもないという人生になるかもしれないと言う宣告を受けてしまった。
 彼は酒と塩分を断ちシンプルな生活を始める。歳を取ってからしようと思っていた一坪劇場を計画よりも早く50代前半に開いたのだ。「舞台で公演をしようと思ったら多くの人が必要です。例えば、照明家が事情で来られなくなったら誰かが代わりにしなければならない。そんな手配などが辛くて…。ですが、一坪劇場は私一人でみんなやるので、本当に気分的にも楽だしやり易い」


©Kim Young-Ho
 シアターゼロ時代は演出家、俳優だけでなく企画から制作まで頑張って行い、打ちたい公演、見せたい公演を存分に披露してきた。「私は街頭と舞台をひっくり返すことに飢えている。気が狂ってみたいに。泣いて笑って怒って、時々感動を受けることが私の日常なのに。今は自分が思うような突飛な馬鹿げたことも出来ずに頭がおかしくなる程だ。これからは多くの人の魂を揺さぶるための舞台を創っていきたい」。彼のエッセイ「私は日々革命する」(2002)は当時の激情をこのように吐露していた。しかし痛みも大きかった。20人の団員に給料を与えるためにいつも戦々恐々としていた。「今考えてみると、何でもできる可能性のある時期に劇場運営に多くのエネルギーを注ぎ過ぎたことが悔やまれる」と回顧した。
 劇場の門は閉じたが彼は演技を続けることは諦めなかった。年配の俳優を望む舞台がない現実を打開するために自分だけの劇場を作ったのだ。「俳優という本質を守ること。公演を行うと気が凝縮する感じ」と言って修行するように一人芝居を続けてきた。都市を愛する彼は光化門と三清洞、明洞、西村など市内を自転車で行き来しながら運動をして人に会い文化生活を楽しむ。しかし公演の日は外出を避け、沈黙に浸りながら静かに舞台の準備をする。料理することが好きな彼は観客たちに簡単な飲食を提供する方法も思案中だ。多くの人々との関係を維持していたシアターゼロ時代に出来なかったことも一坪劇場で成し遂げた。 1980年代からの街頭パフォーマンスを披露して来た彼の最終目標は、人々の記憶に残る野外劇を創ることだ。自然と向き合う野外劇では演劇における言語と様式から脱し、ダンスと音楽が醸し出す原初の芸術を享受することができるからだ。演出家として彼は長い間、100人の俳優が登場する野外劇「100人のハムレット」を夢見てきた。2013年コチャン国際演劇祭の開幕作品として初めてその公演を行った。公演に先立ち、中心俳優30人が光化門広場でパフォーマンスも披露。2016年4月にはウルサン盤亀台岩刻画の前で野外劇「盤亀台」を初演。次の目標は100人の女優が登場する「100人のオフィーリア」を創ること。このように、一番小さい劇場と一番大きな劇場を行き来することができるのは「一坪劇場で本質に触れたおかげ」である。

 「すべての男はハムレットであり、すべての女はオフィーリアだ」と考えている彼はハムレットとして長い間生きてきた。俳優としての彼の代表作はハイナー・ミュラー原作、チェ・スンフン(水原大教授)演出の「ハムレットマシ-ン」である。1993年初演以来、2012年にポーランドのワルシャワ公演までの20年間、国内外で持続してきたレパートリーだ。一人芝居「生きるか死ぬかそれが問題だ」もハムレットのセリフから取った題名である。ハムレットが共感を得るのは理想と現実の境界で苦悩する人間であり、誰にも頼らずに自らの存在を問う孤独な人間だからだ。

 母親の嘘を暴くために舞台を創ったハムレットのように、彼にとっても演劇は人生の試験台であった。口数が少なく内向的だった彼は先輩に連れられて1982年現代劇団に入団し、1983年に国立劇場3期研修生として演技・歌・踊りなど、本格的な訓練を受ける。しかし正統派の舞台は彼には合わなかった。彼はニューヨークに留学し帰ってきたキム・スナム清州大教授に出会うことで、実験芸術に傾倒し民主化デモが盛んだった街頭で形式と不正に抵抗するパフォーマンスを行う。
 その後、演出と出演の「原始人になるための聾唖者所作」(1986)に続いて「沈哲鐘所作の犬」(1989)を発表して話題となる。ネクタイを結び洋服を着た男が首輪をはめられ繋がれたまま吠え喘ぐ姿がペーソスを醸し出した。国内はもとより日本でも評価された。
 「八村鉱山レクイエム」が1990年に福島の実験芸術祭に招待されたのを皮切りに北東京‹実験〉演劇祭、東京国際演劇祭、藤野フェスティバルなど。他に「脱却」「エレファントマン」「水と火」「シュガー」などが紹介された。2000年には日本国際交流基金の招請研修を受ける。
 実験劇を見に劇場に来ない観客を求めて彼はしばしば街頭に出た。下半身だけ隠したまま裸で街を闊歩するなど狂ったパフォーマンスを繰り広げ、何度も道路交通法違反で摘発された。シアターゼロの劇場を再オープンした時には天井にレールを取り付けて空中回転座席を設けたり、トイレを舞台として使ったり、劇場の外から劇場内を見ることができるモニターを設置するなど、観客に向けたアプローチにも力を注いだ。
 江原道高城郡花津浦で幼年時代を過ごした彼は、夜明けに睡魔を振り払いながら浮かび上がる赤い太陽を迎えるために海辺に走って行った。それがムーダン(韓国土着のシャーマニズム)気質のある彼の神がかりの始めであり、ムーダンの役割を自認して演劇の人生を続けて来たのだ。ムーダン巫祭のパフォーマンスを繰り広げて高揚してうまくいく時もうまくいかない時あったが、そうしている内に体調を崩すことを繰り返すようになっていった。そして死への関心を持つに至り、早い時期に「遺言状執筆」(2000)と言うパフォーマンスを行う。
 今、彼は生涯やってきた演劇を凝縮した一坪劇場の舞台で観客に問う。「死とは何だろうか、一体何だろうか」。その答えは、泣いて笑って限りある人生を思う存分生きることなのかも知れない。


次回公演
■die pratze 現代劇作家シリーズ8
「ハムレットマシーン」フェスティバル特別参加

日程:2018年4月20日(金)~22日(日)
会場:d-倉庫

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